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安東 貞美
安東貞美
生誕1853年10月20日
日本 信濃国伊那郡飯田
(現:長野県飯田市追手町)
死没 (1932-08-29) 1932年8月29日(78歳没)
日本 東京府東京市牛込区市ケ谷加賀町
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1872 - 1918
最終階級陸軍大将
指揮台湾総督
第12師団長
第10師団長
戦闘西南戦争
日露戦争
墓所青山霊園
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安東 貞美(あんどう さだよし[1]/ていび[2]/さだみ[3]、嘉永6年8月19日(1853年10月20日) - 昭和7年(1932年)8月29日)は、日本の陸軍軍人。朝鮮駐剳軍司令官、第10師団長、第12師団長、台湾総督などを歴任した。階級は陸軍大将従二位勲一等功三級。勲功により男爵に叙爵された。 信濃国伊那郡南部の信濃飯田藩の槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は同国松本藩槍術師範・菅沼政治の子で、飯田藩士・安東辰置の養子となり、辰置の長女志記と結婚した。志記との間に長男欽一郎を儲けるが、志記が早くに亡くなった為、島地菊子を娶った。これが貞美の生母で、貞美の同母兄には後に大審院判事となる柳田直平(1849-1932、柳田家に養子・柳田國男義父)が、弟には中学校教師となる安東武雄がいる。 1870年(明治3年)12月大阪陸軍兵学寮に入った貞美は1872年(明治5年)6月これを卒業し、陸軍少尉心得に任じられる。翌年5月には陸軍少尉に進み、1874年(明治7年)11月、陸軍中尉に進む。1876年(明治9年)8月東京鎮台歩兵第1連隊中隊長心得を命ぜられ、1877年(明治10年)3月、征討別働第2旅団に編入され西南戦争に出征する。
経歴