安本美典
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安本 美典人物情報
生誕 (1934-02-13)
1934年2月13日(90歳)
満洲国奉天省鞍山市
国籍 日本
出身校京都大学
学問
研究分野心理学
歴史学
言語学
数学
統計学
研究機関日本リサーチセンター
産業能率短期大学
産能大学
学位文学博士
学会日本行動計量学会
計量国語学会
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安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は、日本心理学者日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学[注 1]日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。
来歴

満洲国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国して岡山県高梁市で育つ。岡山県立高梁高等学校を経て、京都大学文学部(心理学)卒。京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。国家公務員採用上級甲種試験(現在の国家公務員総合職)の心理職試験にトップで合格し、旧労働省(現在の厚生労働省)に入省。

旧労働省退官後、社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社。産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月定年退職)。1972年に京都大学から文学博士学位を取得。心理学実験心理学専攻で博士論文は「心理測定のための因子分析法の理論的・実証的研究 : 文章性格学の方法論的基礎」

日本古代史の分野では、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」及び「大和への東遷説」を主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。『季刊邪馬台国』責任編集者。古代史研究は「数理文献学」(Mathematical Philology)の手法[注 2]に基づくとする[注 3]
主張
邪馬台国に関する仮説

邪馬台国や古代史問題について次のような仮説を展開している。

日本神話は実際の歴史上の出来事が伝承として伝わったものである。
トロイ戦争など神話だと思われていたことが実際の出来事に基づいている例は多い。

高天原邪馬台国天照大神卑弥呼である。
天の岩屋戸の伝承は卑弥呼の死と台与の相続を暗示したものである。

記紀では高天原は九州にあったとされるため邪馬台国は九州である。
神武天皇の東征などは基本的に事実を基にしているはずである。

欠史八代の天皇など、架空とされた天皇は実在する。
天皇の在位年数は、時代を遡るにつれて短くなる傾向がある。多くの天皇が実在しないと仮定するよりも、記紀に書いてあるとおり実在し、その在位年数が信じられないと仮定したほうが、矛盾が少ない。

平均10年の在位で計算すると欠史八代の天皇の前が神話の時代に相当し、卑弥呼の時代が天照大神に相当する。
数理文献学的分析によると古代の王の在位の平均は約10年である。記紀では欠史八代を直系相続としているが、実際は兄弟相続だった可能性もあり不自然ではないとする。

これらの仮説から次のように考えることができる。

卑弥呼天照大神は同一視できる。『魏志倭人伝』のなかの地名との類似から邪馬台国九州説が有力である。文献によると邪馬台国には28万人もの人がいたとあり、そこから類推し、邪馬台国はいくつかの国の総合名称であり、吉野ヶ里遺跡は女王の支配国の一つであったと考える。つまり、卑弥呼の宮殿は筑後川の上流にあり、流域すべてが邪馬台国ではないかという説である(『歴史街道』1989年6月号)。

以下がその概要である。
年代論

地図に緯度と経度が必要なように古代史の問題を考える時には「年代」を考えることが根本的に必要であるとして、独自の年代論を展開している。すなわち、年代論の先駆者とも言える那珂通世は天皇の平均在位年数を約30年としているが、安本はその在位年数が歴史的事実として信頼できる用明天皇から大正天皇まで平均で14.18年と考える。またこれを4世紀ごとに区分して考えた場合、時代をさかのぼるにつれて在位年数が短くなる傾向にあり5世紀 - 8世紀では10.88年となる。西洋の王や中国の王の平均在位年数についてもほぼ同様の数字と傾向がある。これらのことから、1世紀 - 4世紀については「天皇」の平均在位年数は9年 - 10年程度であろうとする ⇒[1][注 4]
古代天皇実在説

いわゆる欠史八代については実在説をとる。井上光貞をはじめとする非実在説派はその根拠として次のような点をあげている。
記紀には系譜の記述、すなわち帝紀的部分のみがあって、事跡の記述、すなわち旧辞的部分がない。

名前が後世的であり、後から作られた可能性が高い。

全て父子継承で不自然である。

これに対しては安本は以下のように非実在説を否定する。
欠史八代以外でも記紀に帝紀的部分のみがあって旧辞的部分がない天皇は多く、それだけをもって非実在の根拠とはならない。むしろ植村清二が指摘するように、記紀の原型は帝紀であり、それに旧辞が加わってできたものと考えられる[5]

名前が後世的というのはなはだ主観的で古代的といえば古代的といえる名前である。古代の天皇の名前が7世紀 - 8世紀の天皇の名前と似ていると主張されているが、7世紀 - 8世紀の天皇の名前の方が古代の天皇の名前にちなんでつけられたと考えることもできる。

全て父子継承であるのは確かに不自然であり、実際は兄弟あるいは甥などが継承したにもかかわらず確かな情報として伝わらなかったため父子として記述されたと考えられる。そもそも、父子継承が信じられるかどうかということと天皇が実在かどうかということは別問題である。

非実在派の中において、どの天皇が実在しどの天皇が架空であるかに意見の相違がある。研究者の恣意(どれを証拠として信用するか)で天皇の実在・非実在を客観的な基準によらず勝手に決めているとしか考えられない。

神武天皇及び天照大神の年代

以上のことから記紀に記載されている古代天皇の存在およびその順序、すなわち「代の数」は信じられるとする。ただし、父子継承は信じられない。また在位期間も引き伸ばされていると考えられるので信じることはできない。

これらの前提で天皇の平均在位年数を用いて神武天皇の活躍の時代を推定すると280年 - 300年頃となり、さらに記紀では天照大神は神武天皇の5代前となっているから約50年さかのぼれば230年 - 250年頃となり、まさに邪馬台国と卑弥呼の時代に重なる ⇒[2]
卑弥呼=天照大神説

上述のように卑弥呼と天照大神は年代が重なること、また、二人とも女性であり神に仕える立場で宗教的な権威を持ち国を治めたこと、夫を持っていなかったこと、弟がいたこと、など共通点が多く見られることから、天照大神は卑弥呼の史実が神話化したものとして、二人は同一人物であるとする。また天照大神が天の岩戸に隠れると世界は闇に包まれ天照大神が岩戸から出てくると世界に光が戻ったが、天照大神は岩戸隠れの前と後で性格が変わっていることから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとし、卑弥呼の没後倭国は混乱したが台与の登場により平和が戻ったという記事と同じ出来事を伝えるものだとする。

この説は安本の独創ではなく彼は和辻哲郎がすでに大正時代にこの考え方を表していると述べている。諸説ある卑弥呼が誰であるかという説の中では神功皇后説、倭迹迹日百襲姫説などと並んで代表的な説の一つとなっている(「 ⇒邪馬台国比定地一覧」には邪馬台国の比定地とその場合卑弥呼が誰であるとするかということが一覧にまとめられている)。

なお、安本はこの説をとった場合、台与は天照大神の息子天忍穂耳命の嫁である万幡豊秋津師比売に比定できるとしている(台与#人物比定を参照)。
邪馬台国=高天原説

卑弥呼が天照大神であるという仮説からは派生的に次の「系」が導かれる。すなわち、卑弥呼が統治していた邪馬台国と天照大神が統治していた高天原は同一のものである。したがって、高天原がどこかということは邪馬台国がどこかということと同じである。

第二次世界大戦後、日本神話作為説が有力になったために現在ではほとんど忘れられているが戦前には高天原論争というものがあった。


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