安政東海地震
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安政東海地震
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震央の位置を示した地図
本震
発生日1854年12月23日
発生時刻9時30分頃(日本標準時[1]
震央 日本 東海道
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度00分 東経137度48分 / 北緯34.0度 東経137.8度 / 34.0; 137.8[2][注 1]座標: 北緯34度00分 東経137度48分 / 北緯34.0度 東経137.8度 / 34.0; 137.8[2][注 1]
規模   M8.4[5], Mw8.6[3][4]
最大震度   震度7:甲斐甲西駿河相良遠江袋井
津波太平洋沿岸、特に熊野灘、最大22.7m
地震の種類海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数死者2,000 - 3,000人
被害地域畿内東海道北陸道東山道

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日1854年12月23日[6][7])午前9時?10時頃に発生した東海地震である[8][9]。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ沿い東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、いわゆる東南海地震[注 2]の領域も本地震の震源域に含まれていたと考えられている[10][11]フィリピン海プレートの沈み込みに伴うプレート境界型の巨大地震と推定されている[8]。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた[12]

また、南海トラフ巨大地震の一つでもあるとされ、約32時間後[注 3]に発生した安政南海地震 [13](M8.4) とともに安政地震[14]、あるいは安政大地震とも総称される[15]。この地震嘉永年間に起きたが[16]、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる[17]

安政東海地震の震源域は、駿河湾奥から陸域に達したと推定され、著しい激震域と富士川河口付近に地震山と称する断層が出現した[18]。駿河湾周辺の地殻変動や、駿河湾内で海面が盛上がる津波の発生が目撃されていることから、駿河湾にも断層モデルが仮定されている[19][20][21]。すでに、安政東海地震の発生から100年以上経過していることから、次の東海地震の発生が懸念されている (#次期東海地震への警戒を参照)[2][22][23]。「東海地震」も参照
江戸時代の関連地震「安政の大地震」も参照安政の大地震絵図。江戸地震の惨禍。

江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。また、宝永地震と安政地震の再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある[24]

慶長9年(1605年)に起きた慶長地震もかつては震源域が東海道・南海道に亘り[25]、南海トラフ沿いの津波地震と考えられていた[26]。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿いの地震ではなく例えば伊豆・小笠原海溝沿い[27]、あるいは遠地津波の可能性もあるとする見解も出されている[24]

安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4程度の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震 (M 6.9-7.1) が起きた[28]。本地震や安政南海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震までの安政年間に多発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。

識字文化が高度に発達した近世末において日本の2/3が被災したため、この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている[29][30][31][32][33][34][35]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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