安政南海地震
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安政南海地震
安政南海地震の震度分布[1][2]
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震央の位置
本震
発生日1854年12月24日
発生時刻16時20分頃(日本標準時[3]
震央 日本 南海道
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0[4][注 1]座標: 北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0[4][注 1]
規模   M8.4[2],Mw8.7[5]
最大震度   震度6-7:紀伊新宮土佐中村
津波太平洋沿岸、特に紀伊水道、土佐湾。最大16.1m
地震の種類海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数死者数千人
被害地域畿内山陰道山陽道南海道西海道

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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安政南海地震(あんせい なんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日1854年12月24日)に発生した南海地震[注 2]である。

南海トラフ巨大地震の1つとされ、約32時間前[注 3]に発生した安政東海地震と共に安政地震[6]、安政大地震とも総称される[7]。この地震が起きた当時の文書には嘉永七年と記録されているが[8]、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる[9]。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。
江戸時代の関連地震「安政の大地震」も参照

江戸時代には南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。宝永地震と安政地震の再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある[10]

慶長9年(1605年)に起きた慶長地震も、かつては震源域が東海道・南海道に亘り[11]、南海トラフ沿いの津波地震と考えられていた[12]。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿いの地震ではなく例えば伊豆・小笠原海溝沿い[13]、あるいは遠地津波の可能性も否定できないとする見解も出されている[10]

安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きた[14]。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。
地震
地震動

嘉永七年甲寅十一月五日庚午-申下刻(七ツ-七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時20分頃)、紀伊半島から四国沖を震源(北緯33.0°、東経135.0°[注 1])とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている[15]

この地震の発生時刻(津波の励起時刻)は、サンフランシスコサンディエゴの検潮所で観測された波形から、世界標準時で7時15-25分頃、日本標準時で16時15-25分頃と推定される[3]。津波の到達時刻は東海地震津波の後続波の影響ではっきりとしていなかったが、サンフランシスコにおける観測波形に着目して推定すると、世界標準時で7時24分頃(日本標準時16時24分頃)と推定される。つまり、東海地震との発震時刻の時間差は30.9 hとなる[16]

当日、土佐は小春日和の快晴で、高知城下は南川原にて相撲巡業があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った[17]。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・黒潮町大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなり、やがて激震になったという[18]

畿内では前日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、特に河内平野において、若江(現・東大阪市)を中心に半径約4kmの範囲で家屋倒壊が見られ、震度6弱から最大震度6強と推定される場所が分布した。ここは弥生時代河内湖が存在した場所に一致し、陸化して1000年以上経過しても地震の揺れが強く現れる場所として存在し続けた[19]三河吉田田原および名古屋など前日に地震津波で甚大な被害となった東海地方各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。新居宿では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉(西)の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』新居町関所資料館[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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