安房国分寺
本堂(薬師堂)
所在地千葉県館山市国分959-2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分36.22秒 東経139度53分22.24秒 / 北緯34.9933944度 東経139.8895111度 / 34.9933944; 139.8895111 (安房国分寺)
安房国分寺(あわこくぶんじ)は、千葉県館山市国分にある真言宗智山派の寺院[1]。山号は日色山。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、安房国国分僧寺の後継寺院といわれる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である安房国分寺跡(千葉県指定史跡・館山市指定史跡)、および安房国分尼寺跡に関する議論についても解説する。 館山市市街地から東方、海岸線から3キロメートルのかつての砂丘上(標高19メートル)に位置する[2]。安房国分僧寺を継承する寺院と伝承され、現境内と重複して旧国分僧寺跡が立地するほか、北方約900メートルに旧国分尼寺跡の立地が推定される。ただし安房国には特殊な成立事情があるため、他国の国分寺とは異なり国分寺建立の詔から遅れた時期の創建とされる。 旧国分寺跡の推定境内域は、1957年(昭和32年)に館山市指定史跡に指定され[3]、1992年(平成4年)には千葉県指定史跡に指定された[4]。域内では1976年(昭和51年)から発掘調査が実施されており、金堂と見られる基壇や、寺域を区画した溝などが検出されている[5]。なお、国分寺の立地する砂丘地帯は、縄文時代から中世までの遺跡の分布も知られる地域になる[6][5]。 安房国分寺創建期の出来事[2]年月出来事 創建について文献からは詳らかでないが、出土遺物からは奈良時代後半頃と推定される[7]。 一般に全国の国分寺は、天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃の創建とされる。しかし安房国の場合には、養老2年(718年)に上総国から分立して設置されたものの、天平13年12月に上総国に再併合され、天平勝宝9年(757年)5月に再分立されるという経緯を辿っており、安房国分寺は他国から遅れる時期に創建されたと見られる[2][6]。 安房国と同様に併合・分立を経た能登国・和泉国の場合、前者では承和10年(843年)に定額寺大興寺が能登国分寺に充てられ、後者では承和6年(839年)に和泉郡安楽寺が和泉国分寺に充てられている[2]。安房国の場合に安房国分寺の設置記事は見えないが、能登国・和泉国と同様に、既存の定額寺が安房国分寺に充てられたとする説がある[2]。 なお日色山国分寺(現国分寺)の寺伝では、詔以前の神亀4年(727年)、国司に付き従って安房に下向した史生の鹿屋脛代が、行基作の薬師仏を本尊とする堂宇を建立したことをもって創建と伝える[2][5]。しかし現国分寺と旧国分寺の関係自体が詳らかでなく、伝承も明らかではない[2]。 『類聚三代格』では、仁和2年(886年)6月2日の太政官符に「彼国定国分寺、已置十僧」と見え、この頃までには安房国分寺の存在が認められる(史料上初見)[2][6]。
概要
歴史
創建聖武天皇肖像
養老2年(718年)安房・能登・石城・石背国の分立
天平13年(741年)2月<国分寺建立の詔>
12月安房国の上総国併合
能登国の越中国併合
天平勝宝9年(757年)和泉・安房・能登国の分立
承和6年(839年)和泉国分寺設置
承和10年(843年)能登国分寺設置
仁和2年(886年)安房国分寺の史料上初見
古代