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安徽派(あんきは、皖系とも)は、袁世凱の北洋軍閥の分派の1つである。主要人物としては袁世凱の武将であった段祺瑞がいる。 袁世凱の存命中は結束していた北洋軍閥だが、1916年6月に袁世凱が病死して以降は徐々に政策の違いから分裂していく。その中で特に中央政界に位置して権力を保ったのが、日本の支持を得ていた段祺瑞の安徽派であった。段祺瑞は国務総理兼陸軍総長を務めていた。 当初は「グループの違い」程度のものだったが、1917年9月に孫文が広東軍政府を組織して中華民国からの独立を宣言すると、その対応で国論が二分する。段祺瑞は武力征伐を主張し、大総統代行だった直隷派の馮国璋はあくまで平和的解決を主張した。結局段祺瑞は、袁世凱死後の東北地方を纏め上げた張作霖率いる奉天派(奉系)と連合して南征を強行、さらに1918年の新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、馮国璋を大総統の地位から引きずり下ろした。これが原因で安徽派と直隷派の間にわだかまりが残った。 政権を掌握した安徽派は日本からの借款を通じて国力の増進に努めたが、五四運動などの反日感情の高まりと共に国内の支持率は低下していった。これを好機と見たのは直隷派である。1920年7月、直隷派はイギリス・アメリカの支援を受けて、仇敵である奉天派と連合して兵を起こす。これが安直戦争(直皖戦争)である。安徽派は段祺瑞の副将格である徐樹錚を派遣するがこれに大敗し、1920年7月19日に段祺瑞は国務総理を辞任する。 安直戦争の敗戦で段祺瑞、徐樹錚、盧永祥、段芝貴ら安徽派の主要メンバーは皆失脚し、事実上この時に安徽派は崩壊する。後にこの時の直隷派政権が崩壊すると、1924年11月23日から1926年4月20日まで一時的に段祺瑞が大総統相当職である臨時執政に就任しているが、あくまで軍閥のバランス上にあっての就任であり、すでに単独で政権を担えるだけの力は持っていなかった。 安徽派(皖系)とは、首領の段祺瑞の出身地が安徽省(皖)だったことにちなんだものである。
概要
北洋軍閥からの分派
安直戦争詳細は「安直戦争」を参照
名前の由来
主要人物
軍人
奉天派(東北軍)
山西派
西北派(国民軍)
北京政府・
北洋軍閥内の抗争
府院の争い
張勲復辟
安直戦争
奉直戦争
北京政変
その他の地方軍閥
北京政府への対抗(北伐)
第二革命 - 護国戦争(軍務院) - 護法運動 - 神兵起義 - 北伐(国民革命軍)
国民政府とその分派
第一次広東政府 - 第二次広東政府 - 第三次広東政府 - 第四次広東政府 - 武漢国民政府 - 南京国民政府 - 北平国民政府 - 第五次広東政府
国民政府内の抗争
(?介石への対抗)
中山艦事件 - 上海クーデター - 寧漢分裂 - 南昌蜂起 - 寧漢戦争 - 易幟 - ?桂戦争 - 中原大戦 - 汪兆銘狙撃事件 - 両広事変 - 西安事件 - 汪兆銘政権 - 皖南事変
地方政権・分離独立運動
福建事変(中華共和国) - イリ事変(東トルキスタン共和国) - ボグド・ハーン政権 - 国共内戦(中華ソビエト共和国・中国共産党革命根拠地) - 満洲事変(満洲国) - 華北事変(冀東防共自治政府)
外国との衝突
南京事件 (1913年) - 鄭家屯事件 - 寛城子事件 - 尼港事件 - 万県事件 - 南京事件 (1927年) - 漢口事件 - 済南事件 - 山東出兵 - 新疆戦争 - 中蔵戦争 - 中ソ紛争 - 万宝山事件 - 満洲事変 - 第一次上海事変 - 中山水兵射殺事件 - 成都事件 - 北海事件 - 漢口邦人巡査射殺事件 - 上海日本人水兵狙撃事件 - 盧溝橋事件 - 大山事件 - 第二次上海事変