安徳天皇
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。

安徳天皇
安徳天皇画像 泉涌寺所蔵
第81代天皇
在位期間
1180年3月18日 - 1185年4月25日
治承4年2月21日 - 寿永4年3月24日
即位礼1180年5月18日(治承4年4月22日
大嘗祭1182年12月21日(寿永元年11月24日
元号治承
養和
寿永
元暦
時代平安時代
先代高倉天皇
次代後鳥羽天皇

誕生1178年12月22日
崩御1185年4月25日寿永4年3月24日
壇ノ浦(現在の山口県下関市壇ノ浦)
陵所阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
漢風諡号安徳天皇
諱言仁
別称水天皇大神
父親高倉天皇
母親平徳子
皇居平安宮福原宮
テンプレートを表示

安徳天皇(あんとくてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:安コ天皇、1178年12月22日治承2年11月12日〉- 1185年4月25日寿永4年3月24日[1])は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。は言仁(ときひと)[2]歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である[注釈 1]

高倉天皇の第一皇子[3]。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)[4][5]
略歴吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。

治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年2月21日数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[2][6]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[2]。摂政には藤原基通が任じられた[2]

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[2]大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた[7]寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[2][8]。この後寿永2年8月20日1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[9]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[10]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[11][12]。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠[注釈 3]及び其の附近なるべし」としている[13]。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている[14]。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。

しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼源義経)によって、平家は一ノ谷の戦い屋島の戦いに敗北[2]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[15]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突[2]。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る[2]。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[3][5]

平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[17][18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef