安島氏
[Wikipedia|▼Menu]

安島氏(あじまし)は、姓氏のひとつ。安嶋とも記す。常陸国および東北地方における武家の一系。また越前国近江国にも見られる。



家紋 丸に細立ち梶の葉

家紋 丸に中陰抱き梶の葉

家紋 酢漿草

家紋 丸に違い鷹の羽

家紋 丸に木瓜


概説

安島氏は本姓藤原氏とする一族である。家系は藤原北家の祖藤原房前の五男魚名の流れを汲む血筋で、俵藤太秀郷を祖とする。主に常陸国(茨城県)から陸奥国東南部・中部(福島県)一帯にかけて活躍した武家である[1]

陸奥国磐城地方の安島氏の家紋は「酢漿草」、「丸に木瓜」、「丸に違い鷹の羽」などを用いる家が多い。また、常陸国の安島氏は諏訪神党として諏訪神社を信仰し、その神紋に由来する「丸に細立ち梶の葉」、「丸に中陰抱き梶の葉」などを用いた[2]

また、太田亮上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)によれば、「『東作志』に「安島善弥、近江国にて死去す。安島庄左衛門、越前太守少将光通奉仕」と見ゆ。」と記されており、近江、越前国にも安島姓の人物の存在があったことが確認できる[3]。但し、安島氏の全容、とりわけ成立経緯を探るうえで、祖という藤原秀郷からの系譜や本貫地つまり名字の発祥地となった地域は必ずしも明確ではない。完全な解明に至るものとはいえないが、一つ着目すべきは、現在の茨城県北茨城市にあたる旧常陸国多賀郡金岡村(後に関南村西岡等に改称)に字安島なる字名があったことが伝わる点にある[4]。今一つは常陸国久慈郡金砂村芦間郷(あしまごう)という地があり、この地名の指して「蘆間政所」、「阿島政所」と記す文献が郷土資料として残存していることである。さらに、本項でいう安島氏の人物を記した文書には「阿島美濃守」(阿嶋美濃守)と記すものもあることも付記しておく[5]。但し、この蘆間(芦間)を発祥とする葦間氏は、戦国大名 佐竹氏一門であり、藤原氏を称する安島氏とは合致しない[6]。このことから、名字の本貫を想起する候補地は散見されながらも確定するものではなく依然、氏の出生には謎が多いといえる。ただし、福島県いわき市山田町では"地方一流の名門"と伝わるほか[7]、茨城県久慈郡大子町頃藤では"草分け"(すなわち、土地を切り開いた集落を創始した者)の家系であるとされる[8]

安島氏が歴史上、登場するようになるのは主に14世紀である。福島県いわき市の歴史資料である『いわき市史』によれば、南北朝時代、旧陸奥国磐城郡山田村大字大林に所在した大林城にて南朝方に忠義を尽くす武士の集団に、安島家の一党があり、この子孫がいわき市山田に点在する安島家の祖先だと伝わる[9]。また、旧陸奥国岩城郡小川城主で後に常陸国久慈郡上小川村(現大子町)に移住し、小川城主となった佐竹一門の小川大和守義継配下の侍大将22騎の中に「安嶋善之進久成」の名が確認される。侍大将の面々の石高は5石取りで1人につき4名の軍役を課されていたという[10]

なお、安島一族の動向が盛んに見られるのは戦国時代の頃からである。茨城県大子町の公式な町史である『大子町史』によると、町内の史料である『村々諸士之覚』、『保内御足軽之帳』に、佐竹氏の家老和田安房守昭為の配下で現在の茨城県大子町頃藤を支配していた佐藤四郎右衛門の指南下にあった50人の御鑓衆の中に、安嶋太郎左衛門(ただし、安嶋太郎左衛門尉とも)と安嶋左馬亟(ただし、安嶋左馬丞とも)、安嶋新左衛門(ただし、安嶋新左衛門尉とも)と同姓同名の者(ただし、安嶋新右衛門尉とも)併せて4名の者の名が確認できる。これらの者は5石取りであったとことが記載されている[11][12][13]

上記のように、南北朝時代はともかく14世紀には佐竹氏及びその家臣に従属する一族がいた一方、16世紀即ち戦国期以降の佐竹氏の南奥州侵攻によって、新規に服属した在地の土豪や被官人の中にも安島姓の人物が見られる。それが白河結城氏の旧臣で佐竹氏に服属した安島美濃守清広である。安島清広ら奥州の安島氏が佐竹氏に服属した契機となったのは永禄3年(1560年10月佐竹右京大夫義昭の軍勢による白河結城氏の寺山城攻略に伴う陸奥国高野郡の制圧であり、以後も天正2年(1574年2月、赤館城奪取により白河郡に新たな領地を獲得。天正6年(1578年8月の佐竹・白河両家の和議によって南奥州における佐竹氏の所領が確定したことであった。これを機に、新たに佐竹領となった地を拠点としてきた安島清広ら土着が武士が佐竹氏の配下に組み込まれたのである。この一連の過程で安島清広は南奥州で佐竹氏の支配を担当した佐竹氏一門、佐竹山城守義久から武家の栄誉を示す美濃守の官途状を給付されたほか、佐竹氏家老 和田昭為の起請文を受け、その所領を安堵された上で、その「指南」下に組み込まれている[5][14]

戦国期の佐竹氏の版図拡大と領土防衛にとって陸奥南郷領はきわめて重要性を帯びた地域であり、以後、新参の外様家臣ながら同地に土着してきた安島清広はじめ安島姓の武将も佐竹氏の配下としてその勢力の維持拡大に従うようになった。以後の佐竹氏の記録では、上述の安島清広のほか、安島丹後守久成など棚倉の城代として重要な役割を果たした人物の名もみられるようになる。当時、棚倉における佐竹氏の拠点は赤館城、寺山城、羽黒山城、東館の四城であり、久成が城代を務めたとすればいずれかであると推定される[15][16]

なお、戦国期の陸奥南郷及びその周辺地域は、陸奥石川氏や浅川氏などの在来勢力たる国人衆が割拠しており、とりわけ、佐竹領近在の国人 浅川氏が宿敵 伊達氏に帰順したこともあって厳しい経営を強いられていた。そのため、佐竹氏は新領土である陸奥南郷領に住まう、佐竹氏とは従来縁故の薄い土豪勢力や在来の有力百姓の取り込みを図るとともに、如何に佐竹氏の影響力を浸透させていくかが重要課題であった。そこで佐竹氏では南郷領の知行宛行つまり領土分配についてはまず、芳賀、河東田、白井、粥目、須田、深谷、大賀、上遠野氏ら服属した国人に対して本領安堵し、被官として取り込みを図る一方、佐竹氏の陸奥国名代である佐竹一門、次いで佐竹氏の行政担当ともいうべき、和田氏人見氏らの奉行衆、さらに現地支配を担当した菊池氏安藤氏井上氏をはじめ中下級家臣からなる吏僚層に南郷領一帯に新たな領地を給し、佐竹氏の支配権確立に努めた[17]。一連の佐竹氏との関係性からは話が逸れるが天正2年(1574)年、陸奥国磐城郡の大名 岩城氏幕下に属する大塚掃部助親成の家臣に安島与左衛門の名が見える[13]

しかし、芳賀氏や河東田、白井など南郷領在来の土豪勢力の惣領家はことごとく伊達氏か白河結城氏に随い、白河結城氏に従った家々も最終的には伊達氏に服属したとされ、その後の佐竹氏の陸奥南郷領支配は必ずしも好転したとは言い難い情勢にあった[17]。特に安島氏との関連から見ても、天正10年(1583年)、安島丹後守久成の子 隼人も棚倉より常陸国内に落ち伸びているなど、苦難を強いられたことがわかる[18]。その後、関白の座につき天下統一に乗り出した豊臣秀吉惣無事令が発布により全国の私闘が禁じられ、太閤検地が行われるに及び、それまで佐竹氏が獲得していた南郷領については安堵が認められた。しかし、それまで陸奥南領支配を任されていた佐竹義久については天正18年(1590年)に秀吉から直々に常陸国鹿島郡へ6万石で転封及び豊臣氏直轄領代官を命じられ、その後の陸奥南郷領統治は佐竹北家の当主 左衛門督義憲に委ねらることになった。その後、佐竹義久が陸奥南郷領から鹿島郡に転封されたことに伴い、主君に随って鹿島郡に転じた人物として佐竹東家の家臣 安島修理亮の子 大膳亮がおり、大膳亮は鹿島郡扱に任ぜられ、同地支配を担任する役人となっていることが確認されている[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:214 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef