やすい きぞう安居 喜造
安居 喜造
生誕滋賀県彦根市
日本
国籍 日本
民族日本人
出身校滋賀県立彦根東高等学校
東京商科大学 (一橋大学)
職業実業家
活動期間20世紀
著名な実績経団連副会長
日本国有鉄道監査委員会委員長
活動拠点 日本
肩書き
三井銀行副社長
三井石油化学社長
東レ会長
経団連副会長
日本国有鉄道監査委員会委員長
伊勢神宮崇敬会東京都本部長
日本化学繊維協会会長
受賞勲一等瑞宝章
補足
⇒Will Weng, Oil Crisis Brings a Diversification, N. Y. Times, Feb. 14, 1974
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安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 1983年9月30日)は、日本の実業家。東レ会長、経団連副会長、日本化学繊維協会会長等を務めた。また日本国有鉄道監査委員会委員長を務め、国鉄再建のため尽力した。1979年勲一等瑞宝章受章。 近江国彦根・龍潭寺を菩提寺とする安居家(彦根藩)の出身。父の喜造は、犬上郡選出県会議員であったが、大正デモクラシー時代[1]、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)設立委員長に就任[2]、同校設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され[3]、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任[4]したことで、「高商町長」(彦根町) の愛称でよばれた[2]。姉・絹は、美濃赤坂の「 ⇒先祖は桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡る」旧家・矢橋家[注釈 1](矢橋敬吉の二男・矢橋次郎[6][7])に嫁ぐ[8][9][10]。父の喜造から見れば、矢橋宗一・矢橋恒男
人物
伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、日本生命保険創業者弘世助三郎の長男で同社第3代社長の弘世助太郎、彦根町長の実父・喜造らとともに、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)創立のための寄附をなし[12]、また、近江水力発電の設立[13]に際して出資し、ダム建設ひいては琵琶湖東岸地域への電気供給を実現させ、さらには、1947年4月から同年7月までの間、公選初代・彦根市長を務めた(「彦根市#歴代市長」を参照)親族の安居喜八は、安居家・本家・当主。
旧制滋賀第一中学(のちの滋賀県立彦根東高等学校)を経て、1926年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、三井銀行入行。大学では大塚金之助ゼミナールに所属[14][15]。
三井銀行で常務、専務を経て、1959年副社長就任[16]。
1961年三井石油化学工業(のちの三井化学)社長就任、1962年三井ポリケミカル(のちの三井・デュポン ポリケミカル)社長兼任。
1963年東洋レーヨン(のちの東レ)副社長就任、1971年東レ会長[17][18]、1977年同相談役。安居喜造とソビエト連邦・ブレジネフ書記長(ヤルタ旧宮殿前)
この間経済団体連合会副会長、日本経営者団体連盟常任理事、経済同友会幹事、日本化学繊維協会会長、東京12チャンネル(現・テレビ東京)取締役、日本国際貿易促進協会顧問[19]、通商産業省産業構造審議会委員、繊維工業審議会
委員、文部省国語審議会委員、伊勢神宮崇敬会東京都本部長なども務めた。1974年国鉄監査委員会委員長就任、1980年再任。日本国有鉄道の再建のために尽力した[20]。
1979年勲一等瑞宝章受章。
元大蔵省事務次官・元国鉄総裁の高木文雄が安居の葬儀委員長[22]。
高木文雄、佐藤栄作、大平正芳、森永貞一郎、澄田智、盛田昭夫、森泰吉郎、茂木啓三郎、井伊直愛、春木榮らと親交を結ぶ[23]。
「…施設方針演説で増税の必要性を強調…こういうさなかのある夕、友人四、五名で大平さんと中国料理を共に…少し遅れてお見えになった大平さんを見て私は思わずハッとした。三十年来のおつきあいで初めて見る苦渋に満ちた…」と元内閣総理大臣大平正芳との交流を回想している[24]。 長男は、安居伸浩(1931年、慶應義塾大学卒、王子製紙勤務)。
系譜