修那羅峠
所在地長野県東筑摩郡筑北村・小県郡青木村
座標.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度24分17.0秒 東経138度06分05.2秒 / 北緯36.404722度 東経138.101444度 / 36.404722; 138.101444
修那羅峠(しゅならとうげ・しょならとうげ)は、長野県小県郡青木村田沢と東筑摩郡筑北村坂井(旧:坂井村)[注 1]の境にある峠[4]。標高は914 m[1]で、石仏群が有名である[4]。古代から交通・文化の要所であった小県地方と安坂[注 2]・麻績地方を結ぶ峠で[4]、丸子信州新線(主要地方道)が通る[2]。信濃川水系の河川である安坂川[注 3]の水源があり、同川は筑北村方面へ北流して同村坂井地区で麻績川と合流する[8]。また青木村側の標高1,105 m地点は修那羅川(しょならがわ)の源流となっており、同川は後に浦野川となって千曲川(信濃川)へ注ぐ[9]。
本項目では、峠の近くに位置する安宮神社(やすみやじんじゃ[10]、海抜1,037 m[11])についても併せて解説する。現道から西へ尾根伝いに約500 m行くと旧道があり、そこからさらに300 m入った地点に安宮神社がある[12]。岸哲男 (1971) は、安宮神社の境内は廃道になったかつての修那羅峠の頂上であると述べている[13]。 地理院地図などには「しゅならとうげ」と記載される[14]一方、地元では北信方言の特徴的音韻[注 4]から[15]、もっぱら「しょならとうげ」と読む[4]。安宮神社は、地元では親しみを込めて「しょならさま」「しょならさん」と呼ばれる[16]。 かつては安坂峠[注 2][4](あざかとうげ)[5]と呼ばれていた。 「修那羅」(しゅなら)は梵語で石を意味する「アシュナ」 (ashu-na) の略音「シュナ」と、チベット語で峠を意味する「ラ」との合成語であり、「石峠」を意味する[17]。 古くは「須那羅」とも書かれた[18]。早稲田大学古美術部研究会の報告によれば、『日本書紀』中の素那羅の人々が定着した土地だという[19]。石田肇はこの説を踏まえ、「須那羅」は朝鮮語の Soi=nara (=「金の国」、すなわち金官国の意味)で、継体朝から推古朝ごろに朝鮮半島からこの地に移住した渡来人たちが、故国の名前を伝承したのが起源であるという説を提唱している[19]。 旧称である「安坂峠」の「安坂」(あざか)[注 2]は、同地から小県郡方面へ通じるなだらかな坂道に由来するものだという[5]。 江戸時代末期ないし[4]、幕末から明治初年にかけ[20]、行者の修那羅大天武[注 5]が峠近くに修験場を構えた[4]。修那羅大天武は万延元年(1860年)にこの地に住み着き、明治5年に死去した[11]が、生前に舟窪山[注 6][11](峠の西[20])で、安宮神社を開いたと伝えられている[11]。安宮神社の御祭神は、大国主命と修那羅大天武命である[21]。 安宮神社の境内には[20]、ブナやクリの林が広がる[11]。その林の中に[11]、善光寺平・小県・安曇野・松本方面の信者たちから寄贈された石造仏・石造神[20](総数860体)が寄進されている[21]。石神仏の特徴は、神仏習合のものが多いことで[16]、『修那羅大天武一代記』(大正3年記)によれば、これらの石像の大部分は、大天武が住み着いた万延元年から、没した明治5年までの十数年間に建立されたという[4]。
名称
由来
歴史修那羅峠の石仏(2012年10月)