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安宅産業
ATAKA & CO., LTD.種類株式会社
略称AC
本社所在地 日本
大阪府大阪市東区今橋5-14[注 1]
設立1904年7月1日
業種卸売業
代表者猪崎久太郎(代表取締役会長)
市川政夫(代表取締役社長)
資本金116億9,300万円
売上高1兆399億800万円(半期)
経常利益12億5,200万円(半期)
純利益13億7,600万円(半期)
従業員数3,498人
特記事項:数値等は1975年3月期のもの[1]
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安宅産業株式会社(あたかさんぎょう)は、かつて存在した日本の総合商社。1904年に創業され、戦後の十大総合商社(三菱商事・三井物産・住友商事・伊藤忠商事・丸紅(丸紅飯田)・日商岩井(日商)・トーメン・ニチメン・兼松江商(兼松)・安宅産業の一角にも数えられていたが、第1次オイルショックによってカナダの製油所プロジェクトが失敗したことで巨額の損失を被り、1977年10月1日、伊藤忠商事に救済される形で吸収合併され消滅した。 1904年7月1日に安宅弥吉によって安宅商会として創業され、戦前から戦後にかけて官営八幡製鐵所の指定問屋4社(三井物産、三菱商事、岩井商店、安宅産業)の1社となるなど、十大総合商社の一角として最大売上高2兆6千億円を誇る大企業であった。元々は「堅実」の社風を特色としていたが、同業他社との売上競争の中で原油取引など新規事業にリスクを無視して進出するようになり、最終的にはそれが破綻の原因となった。 安宅弥吉は1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、いったん日本海陸保険(現・損害保険ジャパン)に入社したものの、すぐに日下部商店 しかし、1904年に日露戦争が勃発すると、当初戦局への悲観論から株価が暴落したため、日下部商店と関係の深かった松本重太郎が経営する百三十銀行や松本商店が倒産した。そのあおりを食って日下部商店も事実上破綻し、法的にはその香港支店にすぎなかった日森洋行も閉鎖を余儀なくされた。 そこで弥吉は自ら個人商店として安宅商会を創業し、本店を大阪市東区船越町に(その後すぐに同区高麗橋に移転)構えた。創業にあたっては、弥吉が自ら開拓した砂糖を除いて日下部商店/日森洋行の旧来の取扱品ならびに客先には手を付けず、すべて新規に開拓することを旨とした。その傍らで旧日下部商店の整理にも尽力し、整理が完了した後も破綻後まもなくして病没した日下部商店店主の遺族に援助を続けたという。 その一方で、旧日下部商店から引き取った社員や中途入社で入った社員が、経営が厳しい折に給与値上げの交渉をしてきたり、弥吉の目の届かない東京支店で勝手な取引をして損を出したことが発覚したりなどした。 弥吉の経営哲学を表した言葉として「蛙跳び経営」がある。蛙は1回跳ぶと、次に跳ぶ前にはいったん身を縮めて力をためる。それと同じように、一歩一歩着実に地歩を固めながら進む、というものであった。他の会社が痛手を受けたような時期、例えば鈴木商店が多額の損失を出した第一次世界大戦直後の不況の局面においても、弥吉は「深追いは何より禁物」として在庫ならびに買いポジションをすべて整理するように強力に指示していた。この時は社内の一部に「まだいける」として指示に従わなかった者があり、多少の損をかぶることもあったが、全体としては適切な時期に適切な整理を行うと共に、攻めるべき局面では攻めの経営を行うことで業績を伸ばしていった。 しかし、重雄は京都帝国大学文学部哲学科出身で、英一のような浪費癖はなく堅実ではあったものの、哲学専攻という学究肌の人物で、商売に精力を傾けるタイプではなかった。それも手伝って、社内は重雄をもり立てる方向ではまとまらず、重雄派と英一派の2つの派閥が生まれることになった。英一派の中心となったのが猪崎久太郎
概要
歴史
創業
そのため弥吉は「信頼できる部下は自分で育てなくてはならない」という思いを強くし、郷里から小学校の卒業生を紹介してもらい学費を出して上級の学校に進学させ、卒業後は安宅商会で働かせるという制度を始めた。
これは実際に美談であるものの、後に社内において非公式権力として隠然たる力を誇った「安宅ファミリー」の母体となり、その大多数は給費生制度によって入社した「安宅家恩顧」の社員で占められてていた。
会社組織へを指名した。長男の安宅英一ではなく、10歳年下である次男の重雄を社長としたのは、英一が自身もピアノを演奏するなど音楽に興味があったこともあって数多くの芸術家のパトロンとなり、月に当時の金額で1万円以上も(当時の大学卒の平均的な初任給は40円だった)浪費していたこと、さらには学生時代(神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒)から靴ひもすら使用人に結ばせるような「殿様気質」を持っており、堅実を信条とする弥吉が「英一には守成の才はないのではないか」という危惧を抱いたためと言われている。また、英一自身も、「社長なんて面倒なことはかなわん」と重雄に社長業を譲ったとも言われている。
第二次世界大戦の終結で、海外にも有していた61の支店・出張所と6つの直営生産会社は閉鎖となった。また、資本金の3倍に及ぶ戦時補償特別税も課せられたため、創業以来40年にわたって築き上げてきた資産のすべてを失うことになった。これによって、1946年には他の商社と同様に会社経理応急措置法による特別経理会社に指定され、企業再建整備法に基づく再建案の審査を受けることになった。だが、三菱本社や三井本社のように過度経済力集中排除法によって解体されることはなかった[2]。
そうした折に、戦争責任問題もあり、英一を担ごうとする猪崎の工作もあって、弥吉の前で重雄社長と英一の兄弟が話し合いを持った。その結果、1945年10月に重雄は他の多くの取締役と共に退任し、後任として神田正吉が社長に就任する事になった。英一は猪崎を社長に据えるよう重雄に迫ったが、重雄は「神田を社長にしないのであれば僕は退任しない」としてこれを拒否。猪崎は副社長となり、ロンドン仕込みの英語を駆使して社長の神田を尻目にGHQとの交渉などで活躍して社内の実権を握っていった。