安土往還記
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安土往還記
表紙絵に用いられたシャルルボワ(英語版)の『Histoire et Description Generale du Japon』の一図(1736)
作者辻邦生
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『展望1968年1月-2月
出版元筑摩書房
刊本情報
出版元筑摩書房
出版年月日1968年8月20日
作品ページ数258
総ページ数260
受賞
第19回芸術選奨文部大臣新人賞(1969年)
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『安土往還記』(あづちおうかんき)は、辻邦生長編小説1968年昭和43年)、『展望』の1月号と2月号に連載され、大幅な加筆修正を施した上で、8月筑摩書房より刊行された[1]。文庫版は新潮文庫より刊行されている。

16世紀大航海時代日本へ渡来した、イタリア人の冒険航海者の書簡という体裁で[2][3]、大殿(シニョーレ)と呼称される、織田信長の半生を描く[4][5]。辻の最初の歴史小説であり[3]、辻は本作により1969年(昭和44年)、第19回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞した[6]
あらすじ

16世紀大航海時代イエズス会の神父たちと共に日本へ渡来したイタリア人が友人へ記した手紙を、翻訳したという体裁をとる[2][5]

手紙の書き手であるイタリア人の「私」は、故郷のジェノヴァで妻とその情夫を刺し殺した。そのとき、「私」は自身の行為にいささかの悔恨も覚えず、「もしそれが私の宿命であるならば、なんとしてもそれに屈しまい」と決意する。その後、ジェノヴァを逃れてリスボアへ渡り、乞食やこそ泥となったり、ノヴェスパニアに渡って軍の指揮官となったりするが、自身の殺人行為も乞食になったことも、全ては「自由意志」によって行ったことだという姿勢が、「私」を支え続けていた[7]

やがて、長い航海生活を経て「私」は、1570年の初夏に日本に渡来[8][9]宣教師フロイスオルガンティーノ修道士ロレンソらに従い、宣教を助けることとなる[8]。そして、人々に恐れられている「尾張の大殿(シニョーレ)」に会う機会を得[9]、特技を認められて、軍事作戦に参与することとなった[8]

「私」が大殿(シニョーレ)と出会ってからも、姉川の戦い比叡山の焼き討ち長島の一向一揆毛利水軍との戦いなどが次々と起こる[8]。大殿(シニョーレ)の側近となった「私」は、鉄砲の作製技法を伝授したり、戦術のアドバイスをしたりして、軍を勝利へと導く。また、3本マストの軍船を作らせ、毛利水軍にも壊滅的打撃を与えた[10]

「私」は彼について、の鉄砲製造業者から「今まで現われた最も残忍で冷酷な武将であり領主」「生れながらの天魔」との評判を聞かされていた[11]。しかし実際の大殿(シニョーレ)は、側近や家来には冷酷で威厳をもって接する一方、外国人や外来宗教に対して柔軟な理解力と好奇心を持ち、宣教師たちには常に厚意を示していた[12][11]。そして、都での布教、会堂の建設に関しても、許可するのみならず、便宜を図ることや、協力することを惜しまなかった。高山殿荒木殿をはじめ、大殿(シニョーレ)配下の家臣も次々にキリシタンとなり、近畿一帯の信者数は増加の一途を辿った[12]

「私」の見た大殿(シニョーレ)の生き方考え方は、「理にかなうことが掟であり、掟をまもるためには、自分自身さえ捧げなければならない」というものであった。「理にかなう」考えのためには、何もかも捨てて一筋に進んでいく大殿(シニョーレ)に私は感心し、彼を自分の分身のように思う[9]。そして、側近たちからも恐れられ敬遠されている大殿(シニョーレ)の、孤独と寂しさに思いを巡らせた[13]

外敵との戦いのみならず、内なる松永殿、荒木殿、高山殿などの謀反への対応も迫られる大殿(シニョーレ)だったが、1580年には安土城が完成。大殿(シニョーレ)は、祝いに訪れた「私」やオルガンティーノに、城の近くへ宣教師館を建てるための広い敷地を与えると約束し、間もなく安土の宣教師館兼セミナリオが完成した[12]

1581年には日本宣教の巡察使であるヴァリニャーノが渡来。彼に不思議な親近感を抱いた大殿(シニョーレ)は[12]、宣教師たちを招待した宮殿の騎馬パレードでもヴァリニャーノの贈り物である肘掛け椅子を使い、ヴァリニャーノが日本を去るに当たっては、盆の夜の祭典で、安土城を松明の火で壮麗に浮かび上がらせた。そして馬上から松明を掲げて、別れの挨拶をヴァリニャーノに送った[14]

しかし、1582年6月初め、明智殿の謀反によって、大殿(シニョーレ)は本能寺で自決した[14]。大殿(シニョーレ)は、明智殿や羽柴殿に対して、同じ孤独者としての愛情と共感を抱いていたが、明智殿のほうではその「苛酷な共感の眼ざし」に耐えきれず、その眼ざしから逃れて、「ひたすら甘美な眠りの中に融けこみたかった」との思いを抑えきれなくなり、謀反を起こしたのだ、と「私」は思う[15][16]。その1年後に「私」は日本を去り、無為の10年を経て、今、ゴアでこの手紙を書いている[14]
登場人物

「私」 - 日本に渡来した
イタリア人[7]ジェノヴァの船乗りで、名前は B・F・**としか明らかにされない。射撃の名手で、測量術や築城法も学んでいた[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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