安国寺恵瓊
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瑶甫恵瓊 (安国寺恵瓊)
天文8年(1539年) - 慶長5年10月1日1600年11月6日
「教導立志基三十三:羽柴秀吉」(月岡芳年[注釈 1]
幼名竹若丸・辰王丸
法名恵瓊
号瑤甫
法号一任斎、正慶
生地安芸国佐東郡
没地京都六条河原
宗旨臨済宗
宗派臨済宗東福寺派
寺院安芸安国寺など
竺雲恵心
建仁寺
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安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗で、武将および外交僧[注釈 2]。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺[注釈 3]の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。

毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある(後述)
生涯

出自が安芸武田氏の一族であることは確定しているが、生年ならびに父親には諸説があり、前者は天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともいわれる。また後者については武田信重(光広)を父とする説と、信重の父である伴繁清を父とする説とが存在する。
東福寺時代

天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった[1]。僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。このほか方丈寺、霊仙寺[要曖昧さ回避]といった寺院を再興し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなどした。
毛利家臣時代

一方、毛利氏が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となる。大友宗麟との多伏口の合戦において博多の町衆に堀70日分の工事を命じるなどの活動が散見される。永禄11年(1568年)の大友家との合戦では恵瓊も従軍し、諸豪族を毛利側の味方とするために渉外を行い貢献した[2]

元亀2年(1571年)6月には毛利元就の書状を携えて上京し、室町幕府将軍・足利義昭に対して大友家・浦上家三好家との和議の斡旋を依頼したが、義昭が三好との調停に難色を示し不調に終わった。しかし、翌元亀3年(1572年)には三好を除いた大友・浦上との講和については義昭が了承し、再度上京して10月には大友・浦上両家との和議の斡旋に成功した(『萩藩閥閲録』)。

天正元年(1573年)、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には毛利氏使者として恵瓊も参加した[3]。しかし、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂、このとき、恵瓊は義昭が西国に来ないよう要望している[4]

天正4年(1576年)に足利義昭が備後国に移ってきたあとも、宇喜多直家と断交し織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった(『巻子本厳島文書』)。

天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中備後美作伯耆出雲を、高松城主清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。また、変報が伝わった後、同年7月に講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた[注釈 4]。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。

天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった[5]
秀吉近臣時代

天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられた。また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、同年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社千畳閣など作事の奉行を務めている。

天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。

武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられた。
肥後国人一揆

肥後国人一揆が起こった際には芸州衆からなる第二陣の将として・粟屋・古志・伊勢・小田・日野ら毛利家臣の兵を率いて小早川秀包・立花宗茂鍋島直茂筑紫広門らの第一陣に続いた。


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