安史の乱
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安史の乱

安禄山軍の進路

時755年12月16日 - 763年2月17日
(7年2ヶ月1日間)
場所中国北部
発端唐の節度使の安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱
結果唐王朝・ウイグル帝国連合軍[1]の勝利、唐王朝の弱体化

衝突した勢力

ウイグル帝国
アッバース朝
指揮官
玄宗
粛宗
代宗
封常清
高仙芝
哥舒翰
郭子儀
李光弼
張巡
李嗣業戦傷
顔真卿安禄山
安慶緒
史思明
史朝義
李宝臣 
戦力
約60万人-70万人約20万人-30万人
被害者数
双方合計で死者1300万人-3600万人[2][3]

安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、節度使安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。安禄山・史思明両者の姓をとって、「安史の乱」と呼称される。
背景

安禄山は西域サマルカンド出身で、ソグド人突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃の楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の河北省北京市周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。

史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
挙兵青の矢印が反乱軍の進路、赤が唐軍

李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の又従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。
安禄山軍の構成

盟友である史思明、参謀の次男の安慶緒、漢人官僚の厳荘や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らが参画した[4]

当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、蕃漢10万?15万の軍団で構成された。
洛陽陥落と燕国建国の宣言

唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1カ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。

756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[4]
唐軍の状況

唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。

哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
雍丘の戦い

しかし、756年春に行われた雍丘の戦いにおいて安禄山側の反乱軍は唐の正規軍に敗れ、計画が一時破綻してしまう。安禄山の配下の武将の令狐潮率いる反乱軍は唐の軍人の張巡率いる正規軍に比べ圧倒的な兵力を擁していたにもかかわらず、雍丘?陽を獲得することができず、唐が勢力を回復するまでに燕国が中国南部を征服することができなくなってしまった。結局、燕国は757年に?陽の戦いにて唐軍を打ち破るまで?陽地区を制圧することは出来なかった。
燕の長安制圧と唐の敗走

唐は756年6月、蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]

パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗はへと敗走する。その途上の馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊?・楊暁・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[4]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
唐よりウイグル帝国への援軍要請

756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌王李承ァと、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定蕃らを派遣する[5]。10月に、オルド・バリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。

756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将の阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トンラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[6]

葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[6]

756年、アッバース朝カリフであるマンスールは、唐を支援するために4000人のアラブ兵を派遣した。彼らは戦後中国に駐留した[7][8][9][10][11]
安禄山の暗殺

一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近らの反発を買い、安禄山は757年正月に安慶緒によって暗殺された。父を殺した安慶緒がその跡を継いで皇帝となるが、安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立してしまう。

なお、同年春には燕軍に捕らわれ長安に軟禁されていた杜甫が『春望』を詠んでいる。
唐・ウイグル連合軍による奪回戦

粛宗は757年2月には鳳翔にまで南進する[6]

757年9月、葛勒可汗は葉護太子と将軍の帝徳ら3000?4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王李俶(後の代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[6]

唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[6]、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。

757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて燕軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。

郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。燕軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。

11月、広平王・僕射郭子儀・葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[6]


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