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安倍能成1956年(昭和31年)頃の撮影
生誕1883年12月23日
愛媛県松山小唐人町[1]
死没 (1966-06-07) 1966年6月7日(82歳没)
東京都文京区本郷
出身校東京帝国大学文科大学哲学科[1]
配偶者藤村恭子(藤村操妹)
学派自然主義(哲学)
研究分野カント哲学[2]
主な概念対日講和条約締結の全面講和論
影響を受けた人物
夏目漱石、波多野精一、高浜虚子、ルドルフ・オイケン
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安倍 能成(あべ よししげ、1883年〈明治16年〉12月23日[1] - 1966年〈昭和41年〉6月7日)は、日本の哲学者[3]、教育者、政治家。位階は正三位。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 医師安倍義任
経歴
出生から学生時代
帝国大学在学当時の哲学科同期生には伊藤吉之助、小山鞆絵、宮本和吉らがいた。同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と1912年(大正元年)に結婚した[6][7]。また、一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続き、後年は岩波書店の経営に「哲学叢書」の編集者として関与し[8]、岩波の没後には、公式伝記も執筆した。
在学中、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を受けた。1906年(明治39年)、東京帝国大学1年生時に、友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬して師事した。「ホトトギス」などに文芸評論を発表し1911年(明治44年)には阿部次郎ら4人の合著による「影と声」を刊行する[1]。小宮豊隆・森田草平・阿部次郎(鈴木三重吉とする説もある)と並んで「漱石門下の四天王」と称された。鈴木三重吉や寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。漱石が修善寺の大患(1910年)に陥った時、安倍たちが駆けつけると、来たからには「あんばいよくなる」と言われたとの挿話があった。 1909年(明治42年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[9]後、朝日新聞に自然主義文学批判の文芸評論を手がける一方[10]、1913年(大正2年)に「予の世界」を刊行してからは哲学に活動の場を移し、「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」などを発表した[1]。安倍は特にルドルフ・オイケンの思想を日本に紹介し、この思想は大正期の理想主義思潮の形成に影響を与えた[10]。また、この期間には女子英学塾、日蓮宗大学、慶應義塾大学、一高の各講師を務めた。1920年(大正9年)、法政大学教授に着任。1924年(大正13年)から1926年(大正15年)にかけてヨーロッパへ留学[1][10]。ハイデルベルクには、文部省在外研究員として東大同窓の宮本和吉も滞在していた[11]。 帰国後、1926年(大正15年)に京城帝国大学教授となり[12]、哲学・哲学史第一講座を担当した。朝鮮の文化を詳細に検討し、日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている。1940年(昭和15年)に、母校一高校長となり[13]名校長と謳われた[14]。その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象になったとされている。
大学卒業以降、太平洋戦争終結まで