安保闘争
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国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)。当時国会前庭はまだ整備されていなかった。また憲政記念館が出来るのは12年後の1972年である。

安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で行われた日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。自由民主党など政権側からは「安保騒動」[1]とも呼ばれる。

60年安保闘争では安保条約は国会で与党のみ賛成する強行採決で可決された。岸内閣は混乱の責任をとって内閣総辞職を余儀なくされたものの、同年の第29回衆議院議員総選挙で自民党は単独過半数を上回る大勝利をした[2]。70年安保闘争時には、参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争・抗争の激化によって、運動は大衆や知識人の支持を失うこととなる。
背景

1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカサンフランシスコに於いて、アメリカやイギリスを始めとする第二次世界大戦連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂首相は、同時に平和条約にもぐり込まされていた特約(第6条a項但し書。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は「在日米軍」となり継続して日本に駐留する事が可能となった[3]

なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国(ソ連脅威論)とした日米安全保障条約に対しても激しい非難をした。
60年安保
衆議院通過までの過程

1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)ごろから自由民主党岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸首相以下全権団が訪米、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。

新安保条約は、
内乱に関する条項の削除

日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)

在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置

など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する為の条約から、日米共同防衛を義務付けたより平等な条約に改正するものであった(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の項目を参照)。

岸首相が帰国し、新条約の承認を巡る国会審議が行われると安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾した。締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判(在日米軍裁判権放棄密約事件の項目参照)により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げ、総力を上げて、反安保闘争に取り組んだ。

まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である日本社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり行ったが、全学連の国会突入戦術には表面的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団[注釈 1])」を批判した。これに対し批判された当の全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難した。

なお、ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』の中で、ミハイル・スースロフ政治局員の指導の下、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取りあっていたと記述している[4]新安保条約承認に際して行われた、会期延長の強行採決。衆議院議長は清瀬一郎(1960年5月19日)

4月26日、日米安全保障条約の批准阻止を求める全国学生自治会総連合主流派の関係者は国会議事堂周辺でデモを行い警官隊と衝突。学生18人と警察官10人が重傷を負った。以降も多くの重傷者を出しながらデモは行われた[5]5月19日衆議院日米安全保障条約等特別委員会で、新条約案が強行採決され、続いて5月20日衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山河野一郎松村謙三三木武夫古井喜実らが欠席、あるいは棄権した。
闘争の激化

デモ(1960年)

デモ(1960年)

学生ら(1960年)

中華料理屋ののれん(1960年)

全国の公私立大学の教職員によるデモ(1960年6月2日)

その結果「民主主義の破壊である」として、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。これに対して首相岸信介は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内のアイク歓迎実行委員会委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暴力団関係者の会合に派遣した。松葉会藤田卯一郎会長、錦政会稲川角二会長、住吉会の磧上義光会長、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組尾津喜之助組長ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。


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