この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "安井誠一郎"
日本の政治家安井 誠一郎やすい せいいちろう
安井誠一郎(1960年頃)
生年月日1891年3月11日
出生地 日本岡山県御津郡伊島村
(現:岡山市北区津島)
没年月日 (1962-01-19) 1962年1月19日(70歳没)
出身校東京帝国大学独法科
所属政党(無所属)→
自由民主党
称号勲一等旭日大綬章
名誉都民
親族安井謙(弟)
衆議院議員
選挙区旧東京1区
当選回数1回
在任期間1960年11月21日 - 1962年1月19日
初-3代 東京都知事
当選回数3回
在任期間1947年5月3日 - 1959年4月18日
官選第34代 新潟県知事
在任期間1940年4月9日 - 1941年1月7日
第6・8代 東京都長官
在任期間1946年7月23日 - 1947年3月13日
在任期間1947年4月14日 - 1947年5月3日
テンプレートを表示
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。
東京都長官(第6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、衆議院議員(1期)を歴任した。元自治大臣及び参議院議長の安井謙は弟。 岡山県御津郡伊島村生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業。内務省に入省、1920年茨城県庶務課長、休職しドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として震災復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。 1928年に一旦退官し、茨城県から衆議院議員に立候補するも落選。その後内務省に復帰し、富山県・兵庫県・福岡県の警察部長を経て、東京市保健局長兼社会局長に就任する。1931年には同郷で朝鮮総督の宇垣一成に請われて秘書官となり、朝鮮総督府専売局長を務めた後、1936年、京畿道知事に就任した。のち拓務省拓務局長なども務め、植民地経営のポストを多く歴任した。 内地で1940年から新潟県知事を経て、東京市電気局長を務め、1946年に幣原内閣で厚生次官となる。しかし、同内閣総辞職により5月に退任。同年7月には官選では最後となる東京都長官に就任、歴任した。 1947年4月、安井は公選となった東京都長官の選挙に自由党・民主党の推薦を受け立候補。日本社会党推薦の田川大吉郎らを破って当選する。同年5月3日の地方自治法の施行により東京都長官は東京都知事に移行。初代東京都知事となった。51年、55年の都知事選にも連続当選し計3期都知事を務めた。任期中には、全国知事会の初代会長にも就任。任期中は主に戦災復興や食糧確保、カスリーン台風被害に尽力し、一方で、首都圏整備法制定の産婆役にもなり1964年東京オリンピック誘致も進めた。 戦後復興下での安井都政は、中央政治と直結した「安井保守王国」の巨大都市づくりに大いに力を発揮した。しかしその半面、都市の過密化と公害に拍車をかけ、1950年代から60年代の都庁・都議会・業者の癒着による大汚職の温床につながった。 安井は1959年に執行された東京都知事選挙には立候補せず、都知事勇退を表明。退任後は名誉都民に推され、1962年に受賞している。1960年に旧東京1区から自由民主党公認で衆議院議員に立候補し当選したが、任期中の1962年1月19日に死去。70歳没。現在は多磨霊園に眠っている。 最晩年は議員活動の傍ら、東京都心と羽田空港を結ぶモノレール構想に深く関わり、運営会社の日本高架電鉄(後の東京モノレール)の会長に就任する予定もあったが、死去により実現せずに終わった[1]。
経歴安井家の墓
生誕から都知事就任まで
東京都知事
都知事退任後
略年譜
1891年(明治24年) - 岡山県御津郡伊島村にて生誕。
岡山県立岡山中学校を卒業。
1917年(大正6年) - 東京帝国大学独法科を卒業。
Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef