安井智規
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安井 智規基本情報
国籍
日本
出身地兵庫県西宮市
生年月日 (1943-01-25) 1943年1月25日(81歳)
身長
体重177 cm
66 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手二塁手
プロ入り1961年
初出場1962年4月10日
最終出場1975年6月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大阪高等学校

近鉄バファロー
近鉄バファローズ
(1961 - 1976)

監督・コーチ歴


近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ (1976 - 1981, 1988 - 2002)

関西メディカルスポーツ学院

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安井 智規(やすい としのり、1943年1月25日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督1967年までの登録名は「安井 俊憲」。
経歴

大阪高校では3年次の1960年夏の甲子園府予選準々決勝に進出するが、桃山学院に敗退。

卒業後の1961年近鉄バファローへ入団し、2年目の1962年4月7日大毎戦(日生)に村田康一の代走で一軍初出場。5月13日阪急戦(日生)では島田光二の代打で初安打、6月24日の大毎戦(東京)で初盗塁を記録。

3年目の1963年5月20日東映戦(日生)で初打点、1964年4月2日西鉄藤井寺)で畑隆幸から初本塁打を記録。同年は主に二塁手として14試合に先発出場を果たし、1965年は開幕から2番打者、二塁手に抜擢される。同年は打撃が低迷し定位置は奪えなかったが、1966年には矢ノ浦国満サンケイに移籍したため、後継の正遊撃手となる。

1967年には俊足を活かした1番打者に定着し、初めて規定打席(24位)に到達。1968年には8月24日南海戦(日生)で1試合4盗塁を記録するなど、チーム史上2人目の盗塁王となる。

1969年には打率.272(リーグ17位)と成長を見せ、自身唯一となるオールスターゲーム出場を果たす。

1972年には中日から移籍の一枝修平が正遊撃手となったため、主に二塁手、三塁手として起用される。その後も内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1970年と1972年にはリーグ最多犠打を記録し、1971年10月9日の南海戦(日生)で1000試合出場を達成。

1974年9月1日のロッテ戦(日生)で八木沢荘六から最後の本塁打、同29日の阪急戦(日生)で最後の安打を記録。

1975年は無安打に終わり、6月23日の日本ハム戦(後楽園)にクラレンス・ジョーンズの代走で起用されたのが最後の出場となった。コーチ兼任となった1976年には一軍出場が無くなり、同年限りで現役を引退。

引退後は近鉄で二軍守備・走塁コーチ(1977年 - 1981年, 1991年 - 1992年, 1998年)、二軍守備コーチ(1988年)→一軍守備コーチ(1989年 - 1990年)、二軍野手総合コーチ(1993年)→二軍野手コーチ(1994年)→二軍監督(1995年)→一軍守備・走塁コーチ(1996年 - 1997年)、育成担当(1999年 - 2002年)を歴任。一軍コーチ時代の1989年には9年ぶりのリーグ優勝に貢献し、二軍監督時代の1995年にはチームを17年ぶりのウエスタン・リーグ優勝に導いている。

近鉄退団後は関西メディカルスポーツ学院で初代監督(2006年)、コーチ(2007年)を務めた。


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