守谷絢子
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「絢子女王」はこの項目へ転送されています。久邇宮朝彦親王の第五女子については「竹内絢子 (子爵夫人)」をご覧ください。

守谷 絢子
(絢子女王)
守谷家
2017年(平成29年)7月 撮影
カナダアルバータ州レスブリッジにて
続柄高円宮憲仁親王第3女子

全名守谷 絢子(もりや あやこ)
身位女王 → (皇籍離脱
敬称殿下 → (皇籍離脱)
お印
出生 (1990-09-15) 1990年9月15日(33歳)
日本東京都港区 愛育病院
配偶者守谷慧2018年 - )
子女3男
父親高円宮憲仁親王
母親憲仁親王妃久子
栄典宝冠牡丹章

役職日加協会名誉総裁
日本海洋少年団連盟名誉副総裁
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守谷 絢子(もりや あやこ、1990年平成2年〉9月15日 - )は、日本の元皇族日本郵船社員およびNPO法人国境なき子どもたち」理事[1]守谷慧勲等宝冠牡丹章

皇籍離脱前の身位女王で、皇室典範における敬称殿下。旧名、絢子女王(あやこじょおう)。お印(くず)であった。

高円宮憲仁親王同妃久子の第3女子[2]大正天皇の曾孫、徳仁(第126代天皇)・秋篠宮文仁親王黒田清子(紀宮清子内親王)の再従妹にあたる。姉に承子女王千家典子(典子女王)がいる。学位修士(福祉社会)(城西国際大学2016年〈平成28年〉)。
略歴
生い立ち

高円宮憲仁親王同妃久子の第3子(三女)として、1990年(平成2年)9月15日に祖母の崇仁親王妃百合子が総裁を務める社会福祉法人恩賜財団母子愛育会総合母子保健センター愛育病院にて誕生した。同年11月12日の第125代天皇明仁(当時)の即位礼正殿の儀の際には、平成時代最初に誕生した皇族で、当時まだ乳児であった絢子女王も、高円宮夫妻と3姉妹の一家全員の記念写真に収まった[3]

松濤幼稚園に通園し、学習院初等科女子中等科を経て、2009年(平成21年)3月に学習院女子高等科を卒業した。この間、学習院初等科在学中の2002年(平成14年)10月、父・高円宮憲仁親王と死別した。

福祉分野に関心があったことから、同年4月に千葉県東金市城西国際大学福祉総合学部福祉総合学科に進学した。子ども福祉コースを選択、東京都港区赤坂御用地の敷地内にある高円宮邸を離れ、城西国際大学から近距離にある東金市内の住宅で共同生活をした[4]。また、サッカー部のマネージャーを務めた[5]

2010年(平成22年)9月15日に成年を迎え、天皇明仁(当時)から宝冠牡丹章を賜った。その後、成年皇族として宮中祭祀や式典にも参列していた。
成年皇族として

大学卒業後は保育士の資格と社会福祉士資格を取得。在学中にはカナダに海外研修に行き、カナダの福祉を学習するために現地の高齢者施設やチャイルドケア施設を見学した。カナダは、父・高円宮憲仁親王が青年期に留学し、帰国後は日加協会の名誉総裁を長年務めていた縁がある。また、2011年(平成23年)12月、東金市立東金幼稚園の園児40人をキャンパスに招いて「子どもクリスマスパーティー2011」を開催し寸劇にも参加した。

2013年(平成25年)3月、城西国際大学福祉総合学部を卒業。学部代表として学長より学位記を授与され、またサッカー部のマネージャーとしての活動が評価され理事長特別表彰も授与された。4月からは同大学大学院福祉総合研究科へ進学した。2016年(平成28年)3月、同大学院を修了し修士(福祉社会)の学位を授与され、またその修士論文は優秀賞として表彰された[6]2017年(平成29年)6月1日付で城西国際大学福祉総合学部の研究員に就任した[7]

2017年(平成29年)12月、日本郵船社員でNPO法人国境なき子どもたち」理事[1]守谷慧と出会う。福祉を学んできた絢子女王のため、途上国での支援活動を行っている守谷慧との交流により今後の福祉活動の勉強になればとの思いから、慧の両親と知己であった母・久子妃の紹介による。

2018年(平成30年)1月15日、母・久子妃が日加協会名誉総裁を退任し、翌日付で絢子女王が名誉総裁に就任した[8]
結婚による皇籍離脱

2018年(平成30年)4月、守谷慧から求婚を受け、受諾した。同年6月26日に宮内庁は、絢子女王が守谷慧と婚約すると発表し、7月2日に正式に内定した。8月12日に納采の儀が、9月19日に告期の儀が、それぞれ高円宮邸で行われた。絢子女王が告期の儀で着用した橙色のワンピースは、両親の婚約会見の際に母・久子妃が着ていたものである[9]。10月26日午前、結婚を前に皇居賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(かしこどころこうれいでんしんでんにえっするのぎ)が執り行われ、絢子女王は小袿おすべらかしの姿で皇室の先祖と神々に対し結婚と皇籍を離れる旨を報告した。同日午後には、宮殿で天皇皇后に感謝の言葉を伝える朝見の儀に臨んだ[10]

結婚式は同年10月29日に明治神宮で行われた[11]宮中三殿と明治神宮での儀式には、祖母の崇仁親王妃百合子が義母の貞明皇后(大正天皇の皇后)から贈られたもので、次姉の典子女王(千家典子)も着用した小袿と長袴で臨んだ[12]

同日午後に宮内庁職員が婚姻届を提出することに伴い降嫁皇籍離脱)し、以後は民間人の「守谷 絢子(もりや あやこ)」となった[13]。10月30日にはホテルニューオータニ本館「アッザレーア」にて、皇太子徳仁親王同妃雅子(当時)を主賓に三権の長など約70人を招いた結婚披露晩餐会が催された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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