守島伍郎
[Wikipedia|▼Menu]

守島 伍郎(もりしま ごろう、1891年5月23日 - 1970年6月4日)は、日本外交官政治家。元衆議院議員
経歴

福岡藩士・守島正路の五男として福岡市に生まれる。1910年福岡県立中学修猷館[1]、1913年7月第一高等学校独法科[2]を経て、1917年3月東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業[3]。在学中の1916年10月に高等文官試験行政科に合格している。

その後、修猷館の先輩である廣田弘毅を慕って、1918年高等文官試験外交科に合格して、1919年外務省に入省し、在上海日本国領事館領事官補。ドイツに在勤後、1926年6月、二等書記官となって在アメリカ合衆国日本国大使館に在勤する。1930年6月、一等書記官となり中国に在勤後、同年11月、亜細亜局第一課長となり、翌1931年に勃発した満州事変の善後処理に尽力する。1934年6月、亜細亜局が東亜局に改称されると、その第一課長となる。

1940年、「松岡人事」により退官し、1941年に外務省の外郭団体として設立された世界経済調査会の常務理事に就任する。1942年、駐ソ連特命全権公使に任命され、同時に就任した駐ソ連大使佐藤尚武を補佐[4]第二次世界大戦での対ソ外交において困難な対内折衝に従事し、終戦後帰国。

1946年6月、退官して弁護士登録し、同年から審理が始まった極東国際軍事裁判(東京裁判)において、自ら買って出て元首相廣田弘毅の弁護人を務めるが、守島が再三廣田自身に証言台に立つことを勧めたにもかかわらず、廣田は微笑するだけで断ったため、弁護人を辞任。

1947年、自らが1935年に設立に関わった、外務省の外郭団体である国際学友会の理事長に就任し、1965年まで務めている。1949年1月、第24回衆議院議員総選挙民主自由党から立候補して衆議院議員に当選。1950年5月、衆議院外務委員長に選任される。1951年9月、サンフランシスコ講和会議白洲次郎と共に全権団特別顧問として随行した。

その後、善隣学生会館(後の日中友好会館理事長日本国連協会専務理事などを歴任。
栄典

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]

著書

『苦悩する駐ソ大使館 - 日ソ外交の思出』(港出版合作社、1952年)

脚注[脚注の使い方]^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員8頁
^ 『第一高等学校一覧 第19年度(昭和16年至17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)160頁
^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名108頁
^ 佐藤尚武を中ソ大使に、守島公使が補佐(昭和17年3月1日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p43 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

議会
先代
岡崎勝男 衆議院外務委員長
1950年 - 1951年次代
仲内憲治










衆議院外務委員長 (1950年-1951年)


安東義良

生越三郎

岡崎勝男

守島伍郎

仲内憲治

栗山長次郎

上塚司

喜多壯一郎

植原悦二郎

前尾繁三郎

野田武夫

床次徳二

櫻内義雄

小沢佐重喜

小泉純也

本名武

堀内一雄

森下國雄

野田武夫

赤沢正道

臼井荘一

安藤覚

高瀬伝

福田篤泰

秋田大助

北沢直吉

田中栄一

櫻内義雄

田中栄一

櫻内義雄

福田篤泰

藤井勝志

木村俊夫

有田喜一

栗原祐幸

鯨岡兵輔

藤本孝雄

竹内黎一

永田亮一

塩谷一夫

中尾栄一

奥田敬和

中山正暉

竹内黎一

中島源太郎

愛野興一郎

北川石松

山口敏夫

糸山英太郎

浜野剛

相澤英之

柿澤弘治

牧野隆守

麻生太郎

伊藤公介

菅直人

三原朝彦

関谷勝嗣

逢沢一郎

中馬弘毅

井奥貞雄

中野寛成

土肥隆一

吉田公一

池田元久

米沢隆

赤松広隆

原田義昭

山口泰明

平沢勝栄

河野太郎

鈴木宗男

小宮山泰子(代行)

小平忠正

田中眞紀子

中山義活

河井克行


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef