守口漬
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守口漬守口大根

守口漬(守口漬け、もりぐちづけ)とは、守口大根酒粕と味醂粕で漬け込んだ漬物である。中京地域で活躍した実業家・山田才吉が「守口大根味醂粕漬(もりぐちだいこんみりんかすづけ)」を考案。名古屋市中区にあった漬物店「きた福(喜多福)」にて発売し、その略称である「守口漬」が現在は名称として定着している。
歴史

山田才吉1881年明治14年)に名古屋の若宮神社西隣に漬物・食料品雑貨店「きた福(喜多福)」を開業。才吉は故郷である岐阜から取り寄せた守口大根を塩漬けにした後、酒粕で漬け味醂粕で仕上げるという独特の製法を完成させ、翌1882年(明治15年)に「守口大根味醂粕漬」として売り出した。他にも同じ製法を用い青瓜を使った「青瓜味醂粕漬」なども販売した。当時味醂という甘味料は目新しく、酒粕を使う伝統性と味醂粕を使う革新性を掛け合わせたアイデアは話題となり喜多福は大繁盛した。1887年(明治20年)に当時は田園地帯だった場所に笹島駅(後の名古屋駅)が完成すると、才吉は鉄道省と交渉して名古屋土産と称して笹島駅で守口漬の販売を始めた。『名古屋市史(産業編)』には「明治十五年以来、山田才吉は之を味醂粕漬となし、博覧会、共進会等に出品し褒賞を得益々改良を加へ、守口漬、宮重大根味醂漬、其瓜漬と称し、当市の物産となるに至り」とある。

名古屋の漬物業者のほかに、守口大根の産地であった岐阜でもこの製法および名称が伝わった結果、愛知と岐阜ぞれぞれが名産として販売した。

戦時中は、守口大根の栽培停止や酒粕、味醂粕、砂糖などの入手が困難になっていたため少ない在庫で細々と販売しているに過ぎなかったが、戦後1950年昭和25年)に愛知県で開かれた第5回国民体育大会の開催を機会に、喜多福3代目の安藤米秋は、阿波雪漬物店の浅井藤七、大和屋の鈴木梶三郎ら守口漬製造業者および「ういろう」「きしめん」の製造業者らと共に鉄道弘済会に陳情した。その結果「国体みやげ」として名古屋駅構内での販売にこぎつけた上に、守口漬は人気商品となり名古屋名産として再び知られるようになった。

安藤米秋らは、守口漬の一層の強化を図るため、1952年(昭和27年)には守口漬の業者団体組織である「名城会」を結成した。同会は1984年(昭和59年)に「名古屋守口漬暖簾会」にした。名古屋守口漬暖簾会には12社が加盟しており、愛知と岐阜の守口大根生産者組織である岐阜愛知守口大根生産連絡協議会との間では契約が交わされ、毎年の生産数量と価格が決められている。
製法

収穫した守口大根を直ちに塩漬けにし、脱水した後に酒粕に何度も漬け込まれ、2年余りかけて熟成する。具体的な手順としては、1年目の秋に守口大根を収穫すると、直ちに塩漬けにして大根の水分を脱水する。その後翌年2月頃(1年目とカウントする)に下漬を行い、または塩に酒粕を加えた物で守口大根を漬け換える。5月頃?翌々年2月(2年目とカウントする)頃に味付と呼ばれる本漬を5・6回にわたって行う。これは塩漬けが終わった守口大根を酒粕で何度も漬け込み、塩分を抜いて大根の固い繊維を柔らかくするためである。漬け込む回数が多いほど味がまろやかになる。本漬終了後、酒粕に味醂粕を加えたもので漬ける作業(仕上漬)を行い、味を整える。

使用する酒粕の質は酒造会社や製造時期により異なるため、守口漬製造各社は酒粕の配合具合や漬け方を変え、年間を通して品質が安定するようにしている[1]
特徴

袋に入った守口漬を1回に食べる量だけ袋から取り出し、酒粕を拭き取るか、軽く洗い流した後に、お好みの形に切って食べるのが一般的である。お茶漬けや魚の粕漬けなど多彩な料理がある。

奈良漬と同様、の蒲焼きとの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを拭い去り、口をさっぱりとさせる効果がある[2]。これは褐色物質・メラノイジンが胃の働きを活発にし胸焼けを抑えたり、脂肪の分解、ビタミンミネラルの吸収を助けるなどの効果があるためとされている[2]
守口大根の産地

現在は愛知県扶桑町が守口大根の作付面積、生産量ともに全国1位である。かつて守口大根は岐阜県稲葉郡則武村と島村が主な産地だったが、第二次大戦が始まると作付面積は年々減少し、一時は再種圃場の6反を残して栽培が禁止されるほどになった。1950年(昭和25年)に愛知県で開かれた第5回国民体育大会を契機に守口漬の消費量が大幅に伸びると岐阜での作付面積は過去最高に達した。しかし1965年(昭和40年)に開催された岐阜国体に前後して廃川となった長良川分派川の旧河川敷が開発され公共施設の建設や宅地化、道路建設が進むと守口大根の栽培地は著しく減少した。栽培には多大な労働力も要するため敬遠する農家が増え後継者問題が深刻になった。

岐阜の守口大根の種子は門外不出で入手が困難であったが、1951年(昭和25年)に扶桑町の生産者が岐阜から種子を手に入れ栽培が始めた。翌1952年には同町で守口大根生産者組合が結成された。守口大根の生産量が着実に増え、今まで岐阜県に限られていた生産地の独占状態が崩れた。岐阜の栽培農家は伝統を堅持したい反面、将来の守口大根栽培への不安から補助事業の受け入れには消極的だったが、愛知県は地域振興事業や農業構造改善事業など積極的に補助事業を推進して産地育成に努めたため、1971年(昭和46年)以降には岐阜と愛知で作付面積および生産量が逆転した。
守口漬の主な製造業者
喜多福総本家

守口漬を考案した山田才吉が、考案の前年1881年(明治14年)に若宮神社西隣(名古屋市中区本町通沿い)に漬物・食料品雑貨店として創業した。才吉は喜多福と守口漬を皮切りに、日本缶詰、中京新報(後に名古屋新聞を経て新愛知と合併し中日新聞に)、大規模料亭(東陽館、南陽館、聚楽園、北陽館)、名古屋教育水族館、熱田電気軌道名古屋瓦斯(現在の東邦ガス)、柳橋中央市場日本ラインの開発など多くの企業の立ち上げに関わった。1926年(昭和元年)[3]に、喜多福で長く番頭を務め1914年(大正13年)に暖簾分けをした安藤與吉に喜多福の屋号などを譲渡し、その後「喜多福総本家」と屋号を変更した。株式会社喜多福総本家として、5代続いたが、2021年に閉店。屋号「喜多福」として東京に暖簾分けしていた有限会社安藤与吉商店が事業を引き継いでいる。
大和屋守口漬總本家

鈴木梶三郎が創業した。梶三郎は戦前より名古屋栄で塩煎餅などの食料品雑貨を製造・販売していたが、終戦が近づくにつれて商品や原材料も手に入らなくなったことから、梶三郎は故郷の祖父江に疎開。その後、故郷で漬物会社の一員として沢庵漬などの行商を手掛けていたが、終戦になると栄に戻り漬物など多種多様な食品の取り扱いを行う「大和屋漬物舗」を始めたことに由来する。他の製造業者に先駆けてラジオCMやテレビCMなどメディア戦略を取り入れたり、いち早くナゴヤ地下街へ進出するなどして成長した。社長の梶三郎のもと番頭役として原材料の仕入れと加工を曾我米三が担った。梶三郎の死後、1961年(昭和37年)に「大和屋守口漬總本家」と社名を変更して現在に至る。
壽俵屋

大和屋の番頭役だった曽我米三が、大和屋から独立して1980年(昭和55年)に守口大根の栽培地である扶桑町扶桑守口食品を立ち上げ、米三の下呂の実家で代々継承されてきた壽俵屋を屋号とした。


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