宇野 精一人物情報
生誕 (1910-12-05) 1910年12月5日
日本東京都
死没2008年1月7日(2008-01-07)(97歳)
出身校東京大学
学問
研究分野中国哲学
テンプレートを表示
宇野 精一(うの せいいち、1910年〈明治43年〉12月5日 - 2008年〈平成20年〉1月7日[1])は、日本の中国学者・中国哲学研究者・国語学者。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1955年)。東京大学名誉教授。尚絅大学名誉学長。國語問題協議會名誉会長[2]。斯文会理事長[3]、日本中国学会理事長[4]、日本会議顧問[5]を歴任。 1910年(明治43年)、宇野哲人の長男として東京に生まれる。1923年(大正12年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1928年(昭和3年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第一高等学校を経て、1934年(昭和9年)に東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科卒業、同大学院に進学[3]。 同大学院を出た後、東方文化学院東京研究所助手、東京高等師範学校教授、東京大学助教授を経て、1955年(昭和30年)に東京大学教授、同年に論文「先秦礼思想の研究」[6]で文学博士(東京大学)の学位を取得。東京大学退官後、同大学名誉教授、二松学舎大学教授、二松学舎大学東洋学研究所所長などを務めた[3]。 1983年(昭和58年)、叙勲三等授旭日中綬章。2008年(平成20年)1月7日に死去。享年97。
経歴
人物
父の宇野哲人を筆頭とする学者一家(「書香の家」)の人物として知られる[7]。父と同様に皇室とゆかりを持ち、進講も務めた[8]。
赤塚忠と並ぶ、戦後の東京大学における中国哲学研究の中心人物に位置づけられる[9]。
研究活動だけでなく、国語国字問題などに関する言論活動でも知られる[2]。GHQの主導で行われた国語改革に一貫して反対する立場をとり、戦前の漢字・仮名遣いの活用を呼びかけた[8]。1959年(昭和34年)、小汀利得、福田恆存らとともに國語問題協議會を設立し、会長を務めた。
1949年に日本中国学会が設立された際、会名を「日本中国学会」と「日本支那学会」のどちらにするかで議論が起こり、宇野らは「日本支那学会」を支持したが、多数決で「日本中国学会」に決まった[10]。1967年から翌年には同会の理事長を務めた[4]。
1970年代には、英霊にこたえる会・日本を守る国民会議などの設立に携わり[11][12]、元号法制化運動を推進した[13]。後継団体の日本会議幹部の椛島有三・衛藤晟一・百地章は事実上の門下生で、晩年は、同・顧問を務めた[5]。
晩年の2005年には、1989年の平成改元における最終候補三案の一つ「正化」の考案者だったことを公言した[8]。「正化」に込めた意味としては、「戦後の乱れた世を正す時代になって欲しかった」と述べている[8]。
家族・親族「宇野哲人#家族」および「Category:宇野哲人家」も参照
父 - 宇野哲人(同業者)
長男 - 宇野茂彦(同業者)
弟 - 貫達人(歴史学者)
弟 - 宇野義方(国語学者)
弟の息子 - 宇野直人
著書
『儒教概説』 日月社、1948年
『儒教思想』 講談社学術文庫、1984年、ISBN 4061586572
『中国古典学の展開』 北隆館、1949年
『新釈孟子全講』 学燈社、1959年
『中国の知恵 孟子のことば 性善的人生観』 黎明書房、1966年
『明解孟子』 明治書院、1972年
『論語と日本の政治』 明治書院、2002年
『宇野精一著作集』 明治書院(全6巻)、1986年-1990年
儒教概説・東洋哲学史ほか - 巻末に年譜・著作目録
中国古典学の展開ほか
孟子 研究篇・評釈篇
支那哲学研究方法論ほか
随筆・回想・紀行ほか
國語國字問題・教育問題ほか
訳書
『小学 新釈漢文大系3』 明治書院、1965年。朱熹による儒教(朱子学)の修身書
『孟子 全釈漢文大系2』 集英社、1973年、再版1981年
『孟子 全訳注』講談社学術文庫、2019年。弟子による改訂版
『顔氏家訓』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1982年。編訳版
『忘憂清楽集』 講談社、1983年、新装版2004年、解説呉清源
『孔子家語 新釈漢文大系53』 明治書院、1996年