凡例宇都宮貞綱
時代鎌倉時代中期 - 後期
生誕文永3年(1266年)[1]
死没正和5年7月25日(1316年8月13日)[1]
改名貞綱、蓮昇(法名)[1][2]
官位従五位上[1][2]、三河守[1][2]、下野守[1][2]、備前権守[1][2]
幕府鎌倉幕府 引付衆[1][2]
氏族宇都宮氏
父母父:宇都宮景綱[1][2]、母:安達義景の娘[1]
兄弟貞綱、三鶴丸(三観丸)[2]、泰宗[2]
妻北条長時の娘[3]
子高綱(公綱)[2][3]、高貞(公貞・綱世)[2][4]、冬綱
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宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子[1][2]。母は安達義景の娘[1]。興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて[5]貞綱と名乗る。 弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した[1]。その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた[1]。 時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した[1]。 正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した[1]。法名は蓮昇[1][2]、法号は興禅寺。
略歴
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 安田 1990, p. 81, 岡田清一「宇都宮貞綱」
^ a b c d e f g h i j k l m 黒板勝美; 国史大系編修会 編『新訂増補 國史大系 尊卑分脉 第1篇』吉川弘文館。
^ a b 安田 1990, p. 81, 岡田清一「宇都宮公綱」
^ 宇都宮高貞に関しては芳賀高貞