宇曽川
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宇曽川
新大山橋(彦根市)より下流方面を望む
水系一級水系 淀川
種別一級河川
延長22 km
流域面積69.71 km²
水源鈴鹿山脈(滋賀県)
水源の標高77.8 m
河口・合流先琵琶湖(滋賀県)
流域 日本 滋賀県
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宇曽川(うそがわ)は、滋賀県東部(湖東地域)を流れる淀川水系の一級河川
地理

滋賀県東近江市の山間(標高77.8 m[メートル])を水源とし、湖東平野を西進して琵琶湖に注ぐ[1]。総延長は22 km[キロメートル]、流域面積は69.71 km²[平方メートル][1]。水源地帯は花崗岩質で、山地部は広葉樹が大部分である[1]。林相に恵まれているため流下土砂による河床の上昇は見られない[1]天井川である愛知川犬上川の中間を流れているため沿川は低湿地を形成している[2]。平地部を流れる流路は約5 kmあり、河口から3 kmまでは昔から船運が盛んだった[1]

上流には宇曽川ダムが設けられており[3]、宇曽川ダム周辺は県立自然公園(湖東県立自然公園)に指定されている(宇曽川渓谷)[4]

宇曽川の利水による農業が盛んに行われており、牛ヶ瀬堰・寺井井堰・石井堰の3ヶ所から3000 ha[ヘクタール]の田園が開墾され、年間約1500万円分の水揚げがある[1]
流域の社会
河川名の由来

宇曽川の河川名の由来は以下の3つがある

船で
年貢米を運んだことから「運漕川」となり、次第に「宇曽川」になったという説[5]

水があると思えばすぐに干上がり、少し雨が降ると湧き出すように水が押し寄せる「嘘のような川」から来た説[6]

織田信長金剛輪寺を焼き払おうと攻撃を始めたときに住職が高台で火を燃やして寺は既に燃えているように騙して攻撃を止めさせたから、嘘によって救われたことを示すために名付けたという説[6]

水運

宇曽川はかつて琵琶湖と内陸部を結ぶ水運が盛んであった[5]

水運は平安時代から開始されたとみられるが、史料より1656年(明暦2年)3月には確実に行われていた[7]。湖岸の三津屋村を中心に沿川の複数の村で物資の積み下ろしが行われていた[7]。江戸時代初期に彦根藩の年貢米を運送するために行われた水運は時代を経るごとに盛んとなり、年貢米のみならず様々な物資の運送に利用された[8]。しかし、明治期に東海道本線近江鉄道本線の敷設が行われたこと、これに伴う道路の整備されたことで水運の需要がなくなった[8]。そして明治39年から昭和41年にかけて日夏村で護岸工事が行われ、日夏より遡上が不可能となったことで水運は実質的に終了した[8]
平将門と歌詰橋

愛荘町石橋には6世紀頃に築造されたとみられる、周囲80 m、高さ4 mで頂上に小さなが祀られた大きな古墳がある[8]。地元では将門塚と呼ばれ[8]、昔は更に高大で周囲に幅2 mくらいの溝が掘られた周溝墓と伝えられる[9]。この古墳の埋葬者は不明であるが、高貴な人物が埋葬されたと考えられる[10]歌詰橋(2021年5月撮影)

940年天慶3年)に平将門藤原秀郷らによって誅殺されたが、秀郷が戦勝の報告のために上洛しようとして中山道を通って宇曽川にたどり着いたときに将門の骸が追いかけてきたという伝承が残る[10]。秀郷は歌でもって将門の罪をなじったところ、将門はその返歌に詰まって打ち倒れたとされる[10]。これにちなんで宇曽川に架かる中山道の橋を「歌詰橋」と呼ぶようになった[10]。そして、古墳は将門を埋葬したものと伝わる[10]
漁業

宇曽川では遡上するアユなどを捕獲する梁漁を行う第2種共同漁業、中・上流では内水面第5種共同漁業が行われている[11]。宇曽川で最大の漁獲量の磯田漁業協同組合は1949年(昭和24年)に100名余で発足したが、現在は組合員が減少している[11]。かつては河口から200 mの位置で行われていたが、工事に伴う河床低下によって河口から2 kmの位置に移転となった[11]
昭和期の改修工事

昭和期に改修されるまでは断面の形状も不規則であり、出水ごとに越流または破堤して、堤内地に入った水は洪水となって田畑や人家の流出被害を出した[1]伊勢湾台風では2430 haが氾濫している[1]

琵琶湖から岩倉川合流までの8740 mの区間が改良された[1]。歌詰橋より上流部は河積狭小であり連続する堤防がない状態であり、改修によって河積の拡大と線形の改良を行って安全な流下を図った[2]。また、東海道新幹線より上流で発生した洪水を新幹線と並行して新設された排水路(新愛知川・豊郷川)でそれぞれ25 m³/sの水量を流下させるため、これを完全に受け入れる目的もあった[2]。特に愛知川町(現:愛荘町)川久保地区では地盤が低いため出水ごとに長時間浸水(伊勢湾台風の時は68時間)だったため、河床を低下させることで排水を促した[2]。昭和27年までに調査が終わり、昭和28年以降からは中小河川改良工事として施工が始まったが、昭和34年に伊勢湾台風で被災したためそれ以降は災害関連事業として事業が進められた[12]。この改修に伴い、境川合流点より下流は543.4 m³/s[立法メートル毎秒]、それより上流は530.4 m³/sの計画洪水量で設計された[2]

昭和40年台風24号によって宇曽川の肥盥橋付近で300 m³/sほどの水量におそわれ、宇曽川上流部とその支川で被害が出たため、上流部が支川とともに改良復旧された[13]


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