宇文部(うぶん ぶ、?音:Y?wen bu)は、遼西地方に存在した鮮卑の一部族。西晋時代から五胡十六国時代にかけて強盛となった。南北朝時代にはその子孫が北周を建てた。 伝承によると、黄帝に滅ぼされた炎帝神農氏の子孫であり、北方の荒地に隠れ住んでいた[1]。 宇文部の出自は匈奴であり[2]、1世紀に北匈奴が後漢に敗れて西に逃れた際、これに従わずに漠北に留まった部衆がその起源といわれる。その後、彼らは東へ逃れて鮮卑族と雑居するようになり、やがて同化していった。その中で葛烏菟
起源
宇文部の始祖は宇文普回と言う人物であり、葛烏菟の後裔である。普回は狩猟を行っていた際に「三紐の玉璽」を拾い、これには皇帝璽という文字が刻まれていた。普回はこれに驚き、天からの授かりものだと喜んだ。鮮卑族の風俗では、天は宇と謂われ、君は文と謂われたので、部族名を宇文と号し、その姓も宇文とした[1]。
また、『資治通鑑』巻八十一太康六年注引『何氏姓苑』において、「宇文氏は炎帝神農氏の後裔であり、草の効能を試した際に、鮮卑語で草をいう『俟汾(しふん、sifen)』から俟汾氏と名乗り、その後訛って『宇文氏』となった」とある。 元々は遼東の塞外に住んでいたが、宇文普回の子である宇文莫那
歴史
前史
その後、数代を経て宇文莫槐が位を継いだ。宇文部は当時既に遼西地方においては段部と並んで強盛であった。また、慕容部とはかねてより対立し合っており、しばしば攻め入っては侵攻略奪を繰り返した。
293年、部族民を虐げていた事から宇文莫槐は殺害され、弟の宇文普撥が継いだ。彼の時代、拓跋部とは姻戚関係を結んでいる。宇文普撥が没すると子の宇文丘不勤が継ぎ、宇文丘不勤が没すると子の宇文莫珪が継いだ。 宇文莫珪の時代には宇文部はさらに強盛となった。彼は単于を自称し、塞外の諸部から恐れ憚られたという。 302年12月、弟の宇文屈雲
宇文莫珪の時代
宇文莫珪が没すると、子の宇文遜昵延が立った。 宇文遜昵延の時代、宇文部は漠北にも勢力を広げた。 319年12月、遼東を支配する東晋の東夷校尉崔と結託し、高句麗・段部とも同盟を結んで慕容部へ共同で攻め入った。慕容部の大人慕容?の離間工作により、高句麗・段部は撤兵してしまったが、宇文遜昵延は攻撃の意志を崩さず数十万の兵と四十里にも連なる陣営で棘城を攻め立てた。また、徒河にいる慕容?の庶長子慕容翰から挟撃を受ける事を恐れ、数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させた。だが、宇文部軍は伏兵に引っ掛かり、大敗を喫して尽く捕らえられた。慕容?が城から撃って出ると、宇文遜昵延は全軍をもって迎撃させたが、慕容翰は千騎を率いて宇文部の陣営の背後に迫っており、慕容?の軍が戦いを始めたのを見計らってへ突入し、陣を焼き払っていった。宇文遜昵延の兵は大混乱に陥り、為す術もなく大敗した。宇文遜昵延は体一つで逃げ出し、兵卒のほとんどが捕虜となった。更に、宇文部に代々伝わる玉璽三紐も奪われてしまった。その後、宇文遜昵延は棘城へ使者を派遣し、和平を請うた。 宇文遜昵延が死ぬと、子の宇文乞得亀が後を継いだ。 325年1月、後趙君主石勒の要請により慕容部の攻撃に向かうと、慕容?は嫡男の慕容?・遼東相裴嶷・征虜将軍慕容仁らに迎撃させた。宇文乞得亀は兄の宇文悉跋堆
宇文遜昵延の時代
宇文乞得亀の時代
333年8月、宇文乞得亀は東部大人の宇文逸豆帰により領土を追放され、逃走中に亡くなった。 同月、慕容?が宇文部に侵攻すると、宇文逸豆帰は講和を求めた。慕容?はこれに応じ、楡陰・安晋の2城を築いてから帰還した。 11月、慕容?の弟である征虜将軍慕容仁が反乱を起こして遼東を占拠すると、宇文逸豆帰は慕容仁を支援した。 335年、宇文別部が慕容部より侵略を受け、多くの資産が奪われた。宇文部の将軍渉夜干
宇文逸豆帰の時代
12月、拓跋?那は宇文部の支援を得て代へ攻め込むと、諸部大人はこれを迎え入れ、再び代王に即位させた。
336年6月、段部に呼応して慕容部領の安晋へ侵攻した。慕容?が5万を率いて柳城に進軍すると、宇文逸豆帰は退却したが、追撃を受けて輜重を失った。