宇崎竜童
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宇崎 竜童
どぶ板通り手形
基本情報
出生名木村 修史[1]
生誕 (1946-02-23) 1946年2月23日(78歳)
出身地 日本京都府京都市[2]
学歴明治大学法学部[2]
ジャンル

歌謡曲

ポップス

ロック

担当楽器

ボーカル

ギター

トランペット

活動期間1973年 -
レーベル

EMIミュージック・ジャパン

エピックレコードジャパン

日本コロムビア

共同作業者

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

竜童組

宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之

公式サイト ⇒宇崎竜童公式ホームページ

宇崎 竜童(うざき りゅうどう[3]1946年[4][3][5]2月23日[6] - )は、日本歌手作曲家俳優映画監督京都府[4][3]京都市伏見区生まれ。東京育ち。
概要

1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子。「作詞・阿木、作曲・宇崎」のコンビで商業主義的な歌謡曲界においても、数多くの楽曲をヒットさせると共に山口百恵の全盛期を支えた。
来歴
生い立ち

母親の出身地で疎開先だった京都市伏見区に生まれる[7]。母方のルーツは京田辺市である[8]。生後間もなく東京に引っ越し、中学卒業まで代々木上原で育った[7][9][10]渋谷区立上原小学校明治大学付属中野中学校・高等学校明治大学法学部卒業[7]。父親は滋賀県大津市出身[8]で、東京商船学校を卒業して船乗りを経た後に、代々木上原で船具店を経営し裕福だったが[7][11]、中学3年生時に父の会社が倒産、一家は豪邸から借家生活となる[9]

明大付属中野中学・高校時代はブラスバンド部に所属し、明治大学時代は軽音楽クラブに所属しトランペットを担当していた[12][5]。大学の軽音楽部で同い年の阿木燿子と知り合い[1][13]作曲活動を始める[9][5]。両親の手前もあり、プロを目指すことはなかった[9]。大学卒業後、内田洋行に就職したが性に合わず1か月で退社した[7]
作家プロデビュー

その後、義兄の経営する大橋プロでマネージャーを務め、バンド「ミルク」時代の松崎しげるをスカウトし2年間マネジメントを担当するが、ここも後に退社した[9][14]

大橋プロ在籍時には、1969年に阿木作詞・宇崎作曲のコンビで手掛けた、ジュリー(鍵山珠里)とバロンのシングル『ブルー・ロンサム・ドリーム』でプロ作家デビュー[1][5]全日本歌謡選手権11代チャンピオン・大橋恵子のデビュー・シングル『愛の教室』(1971年2月)の作曲も手掛けた。
バンドデビュー

コンサートに飛び入り参加したのがきっかけでレコード会社から声がかかった。1973年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成[2][4][3][5]。シングル「知らず知らずのうちに」でデビューした[1]。このバンド名は前年1972年に思いついていたが当時のバンドに提案したところ逆に解散のきっかけになっていたものである。

1974年の「スモーキン・ブギ」が全国的に大ヒットした[5]。白いつなぎルックと、フレーズのコミカルさとカッコよさをアピールするロックンロールの曲調との落差で注目された[1]。さらに翌年のシングル「カッコマン・ブギ」のB面曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」もヒット[3]、曲中の「アンタあの娘の何なのさ」というセリフは流行語となり[1]、同名映画も作られた。さらに「商品には手を出すな」という楽曲はラジオでのオンエアで話題となった。その後「沖縄ベイブルース」を発表した。77年には「サクセス」がヒット。
歌謡曲作家

同時に歌謡曲の作曲家としての活動も目立つようになった。山口百恵に1976年「横須賀ストーリー」1977年「イミテイション・ゴールド」1978年「プレイバックPart2[注釈 1]1979年「しなやかに歌って」1980年「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向こう側」など数多くの楽曲を提供しヒットさせ、彼女の全盛期を支えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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