宇宙開発競争
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人類初の人工衛星であるソ連のスプートニク1号。人工衛星で先を越されたアメリカではスプートニク・ショックが起こったアポロ11号で人類初の月面着陸に成功し月面を歩くアメリカの宇宙飛行士バズ・オルドリンソ連の有人月旅行計画は実現しなかった

宇宙開発競争(うちゅうかいはつきょうそう、Space Race、宇宙開発レース、スペースレース)とは、冷戦中にアメリカ合衆国ソビエト連邦との間で宇宙開発をめぐって戦われた、非公式の競争である。
概説「宇宙開発競争の年表」および「1957年 - 1969年の宇宙開発の重大事項」も参照

おおよそ1957年から1975年までの間続いたこの競争のもと、それぞれが人工衛星を打ち上げ、人間を宇宙空間へ送り、に人間を立たせるための計画を並行して行った。

この競争の発端は、初期のロケット技術の競争や、第二次世界大戦後の国際的な緊張の中に既にあったが、実際に始まったといえるのは1957年10月4日のソビエト連邦によるスプートニク1号の打ち上げの後であった。宇宙開発競争 (Space Race) という用語は公式な用語ではなく、軍備拡張競争 (Arms race) から類推して生まれた言葉である。

宇宙開発競争は、冷戦中のソ連とアメリカによる文化科学技術の競争の中で決定的な役割を果たした。宇宙技術は、ミサイルなど軍事技術への応用が可能なことと、国民の誇りやモラル、世界の人々へのイメージ向上に与える影響が大きく心理学的な利益があると考えられたことから、両国の競争と摩擦の主戦場となった。緒戦ではソ連が宇宙開発史上初の成果をことごとく独占したが、アメリカは最も印象的な月面着陸を成功させた。巨額の費用がかかる有人月探査は政治的使命を終えたため行われなくなり、宇宙開発競争は一段落したが、21世紀に入るとアジアヨーロッパの様々な国が宇宙開発に参入して相互の競争が始まるようになり、様相は変わってきている。
歴史的背景
初期のロケットと軍事

ロケットは長年に渡り、科学者アマチュア科学者らを魅了してきた。中国人は早くも11世紀に、これを兵器として利用している(火槍)。

19世紀末、ロシアのアマチュア科学者、コンスタンチン・ツィオルコフスキーは宇宙に到達できる多段式の液体燃料ロケットを理論化している。実際に液体燃料ロケットを打ち上げたのは1926年、アメリカ人のロバート・ゴダードであったが、2人とも世間から注がれる目は冷ややかなものがあった。ゴダードはロケット打ち上げ研究を辺鄙な場所で続けていたが、科学者のコミュニティからも、大衆からも、ニューヨーク・タイムズ紙からさえも彼は嘲笑された。

ロケット技術の評価が高まるのは、結局は第二次世界大戦という戦争を通してであった。これは、いかに「ロケット研究は政治や軍事とは関係のない純粋に科学的な研究であり、平和のためでもある」というレトリックを駆使しようと、あらゆる宇宙開発競争は国家の軍事に対する野望と避けがたく結びついてしまうという未来への先触れであった。
ロケットに対するドイツの貢献詳細は「V2ロケット」を参照

1920年代半ばにドイツ人科学者たちは、液体推進燃料で作動する、高空や遠距離に届くロケットの実験を開始した。1932年ヴァイマル共和政下の共和国国防軍(ライヒスヴェーア、後のナチス時代のヴェーアマハト・ドイツ国防軍)は長距離砲としてのロケットに強い関心を持つようになった。熱意のあるロケット科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンはロケット研究に加わり、苦心の末、ナチス・ドイツが第二次大戦で使用することとなる長距離砲撃兵器の開発に成功した。牽引式発射装置上のV2

1942年に打ち上げられたドイツのA-4ロケットは、人類が初めて宇宙空間に到達させた人工物体となった。1943年、ドイツはA-4をV-2(報復兵器2号)の名で大量生産した。射程距離300km、積載可能な弾頭の重さ1トンというV-2を国防軍は数千発もイギリスなど連合国側の国土に打ち込み、多大な損害と多くの犠牲者を出した。

第二次大戦が終わりに近づくにつれ、ソビエト、イギリス、アメリカの軍や科学者の間で、バルト海沿岸のペーネミュンデ(現在のドイツ北東端、メクレンブルク=フォアポンメルン州内)にあったドイツのロケット開発計画の施設や研究者や技術の奪い合いが始まった。その結果、「ペーパークリップ作戦」によって、多数の科学者(その多くは、フォン・ブラウンも含めナチス党員であり、このためソ連に拘束された後の身の危険を恐れた)がドイツからアメリカに移送された。アメリカで、ドイツ人科学者たちはドイツ製ロケットを、イギリスなどへの爆撃の代わりに、アメリカのための科学研究や軍事研究などの目的で使用するため研究を続けることとなる。また、イギリスもV-2の実機や研究者を捕らえるなどいくらかの成功を収めた。

赤軍はフォン・ブラウンなどの主な研究者が去った後のペーネミュンデを占領し(その後ペーネミュンデはドイツ民主共和国(東ドイツ)へ編入)、多くのV-2の実機や研究者を捕らえた上で、ソ連国内へ連行してロケット開発に当たらせた。ただし、その後ソ連は、ドイツの技術の継承ではなく、晩年はソ連科学アカデミーに所属していたツィオルコフスキーの研究、およびその死後(1937年)も続けていた独自の技術研究を基にした開発に進んだ。

戦後の科学者はロケットを上層大気の観測(気温や気圧など)、宇宙線の観測など科学目的で使うようになった。これらはアメリカの研究機関の一員となったフォン・ブラウンとその同僚たちにより細々と続けられた。
宇宙開発競争の萌芽

第二次大戦の後、アメリカとソ連はスパイプロパガンダを通じた冷戦の時代に入ってゆく。宇宙探査と人工衛星技術は、両方の陣営で最もシンボリックな冷戦の尖兵となっていった。衛星技術が発達すれば偵察機を飛ばすことなく他国をスパイすることが可能となり、宇宙旅行が成功すれば国家の科学分野における勇気と軍事的な潜在能力を喧伝できるプロパガンダになる、と考えられたからである。人類を軌道上や月の特定地点に運ぶロケットと同じものが、敵国の特定都市の特定地点に原子爆弾を運ぶ核兵器運搬手段となる可能性があり、宇宙旅行のために開発された技術が、大陸間弾道ミサイル (ICBM) など戦時のロケットのためにも同様に適用できる可能性もあった。

また冷戦下では政治、経済、技術、文化娯楽スポーツなど、直接の戦火以外のあらゆる分野で両陣営が優劣を競って熾烈な戦いを繰り広げていた。軍備拡張競争のもつ軍事以外の側面と同様、宇宙での前進は単に相手国に先駆けたというだけにとどまらず、その国の技術や経済での大胆さの指標とみなされ、そのような成果を達成できる国家のイデオロギーの正しさや優秀さともみなされた。宇宙開発には二つの目的があった。平和的な科学的成果を収めることと、軍事的・心理的な成果も収めることである。

特にソ連の場合、通常の航空戦力ではアメリカに劣り、自国領空を侵犯して行われるアメリカ空軍の偵察活動に対してほぼ無力であった上(1960年U-2撃墜事件も参照)、自国及び東ヨーロッパ諸国での勢力圏が「封じ込め政策」により世界各地へ展開するアメリカ軍に包囲されていたため、これに対抗するために超高速でアメリカ本土を直接攻撃できるICBMの重要性がより高かった。従って、その重要性を認識した後のソ連指導部は、他の軍需産業や民生部門に比してロケット産業における資源の配分や従事者の生活を優遇した。その代償として、技術や人員の多くは厚い国家機密の中に閉じこめられ、研究拠点の一部は公式地図にも記載されない秘密都市となり、ロケットの基本設計者に関してはソ連崩壊までその名前すら明さなかった。

二大国は、どちらが先にブレイクスルーを果たすかお互いに知りえない状況の中、それぞれ宇宙開発の先端の成果を得ようと努力していた。実際には、宇宙開発の分野に、中でも技術的に可能な部分に傾斜して資源を投資していたソ連がアメリカに対し密かに先行していた。どちらも宇宙への競争の地ならしは済んでおり、後は号砲が鳴るのを待つだけだった。
人工衛星開発競争
スプートニクスプートニク1号ソ連でスプートニク打ち上げ成功を記念して発行された切手

1957年10月4日、ソ連は「スプートニク1号」を搭載したR-7ロケットを打ち上げ、世界で初めて人工衛星を地球周回軌道に送り込むことに成功した。


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