宇喜多秀家
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 凡例宇喜多 秀家
宇喜多秀家像(岡山城蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕元亀3年(1572年
死没明暦元年11月20日1655年12月17日
改名家氏(初名)→ 秀家 → 成元(号)
別名家氏、羽柴秀家、豊臣秀家
通称:八郎、備前宰相、:成元、休復/久福
戒名尊光院殿秀月久福大居士
墓所東京都八丈町大賀郷の稲場墓地
丹船山薬王樹院東光寺(東京都板橋区板橋四丁目
宝池山功徳院大蓮寺石川県金沢市野町)
官位従三位侍従参議左近衛権中将
権中納言
主君織田信長豊臣秀吉秀頼
氏族宇喜多氏羽柴氏豊臣氏
父母父:宇喜多直家、母:円融院
猶父:豊臣秀吉
兄弟三浦桃寿丸(異父兄)、秀家、基家[注釈 1]容光院ほか
正室豪姫
秀高秀継、貞姫、富利姫ほか
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宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代武将大名宇喜多氏の当主。通称は八郎、備前宰相。

父・直家の代に下克上戦国大名となった宇喜多氏における、大名としての最後の当主である。豊臣政権下(末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作備中半国・播磨3郡の57万4,000を領していた。
名称

「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語である。天正10年(1582年)の元服時には仮名として「八郎」、諱(実名)として「秀家」を名乗り、宇喜多家の家督を継承したが、宇喜多の名字が使われた記録は無い。天正13年の書状では「羽柴八郎」となっているが、その前年には後見人の羽柴秀吉から名字を省略されて「八郎殿」と称されており、名字の省略は大抵は同名だったことから既に「羽柴八郎」を称していた可能性が高い。天正13年の秀吉の関白就任に伴い豊臣姓を与えられ、侍従に任官して「羽柴備前侍従」を称し、その後昇進に伴い「羽柴備前少将」、「羽柴備前宰相」と改称し、関ヶ原の戦い時は「羽柴備前中納言」であった。同一文書内で「備前宰相」「浮田宰相秀家」と書かれたものも存在する(文禄元年)。文禄4年(1595年)の起請文では「羽柴備前中納言秀家」となっている。本姓を使った対天皇の格式名称としては「参議左近衛中将豊臣秀家」と署名した記録が残るほか(天正16年『聚楽第行幸記』)、嫡男「豊臣秀隆」の任官につき「備前浮田」「備前浮田息」と併記された文書も残っている[2]

なお諱は戦場での名乗りや正式な文書の署名で仮名または百官名を併記して使うが、仮名は百官名を得るまでの仮(臨時)の通称であるため、百官名とは両立しない[3]。すなわち、当時の社会通念上、宇喜多秀家とか宇喜多備前中納言八郎秀家とは名乗らない。
生涯
家督相続

元亀3年(1572年)、備前岡山城(現在の岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。

天正9年(1581年)、父・直家が病死し、家督を継いだ。

天正10年(1582年)、宇喜多氏が当時従属していた織田信長により、本領を安堵された。
織田信長時代

直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国攻めを進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮をとった。また、戸川秀安長船貞親岡利勝(この3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。

6月2日、秀家11歳のとき、本能寺の変で信長が死去する。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することになり、秀家はこのときの所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなった。
豊臣秀吉時代岡山城の石垣で、宇喜多秀家が改修した部分が残存する。

元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする[4][5]。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることになった。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。

天正13年(1585年)3月、紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐国へ上陸後、阿波戦線に加わった。

天正14年(1586年)、九州征伐にも豊臣秀長のもと、毛利輝元や宮部継潤藤堂高虎とともに日向戦線に参加した。

天正15年(1587年)、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられた[6]

天正18年(1590年)、小田原征伐に参加して豊臣政権を支えた。

文禄元年(1592年)、文禄の役では、大将として出陣し、李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。

文禄2年(1593年)1月、李如松率いる軍が迫ると、碧蹄館の戦い小早川隆景らとともにこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。

文禄3年(1594年)5月20日、朝鮮での功により、参議から従三位権中納言に昇叙した(7月20日辞任)[7]

慶長2年(1597年)、慶長の役では毛利秀元とともに監軍として再渡海し、左軍の指揮をとって南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝と述べている[8]。朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税をしこうとして重臣の反発を招き、後述する御家騒動に繋がったとされている。


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