宇喜多忠家
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 凡例宇喜多 忠家
宇喜多忠家像(岡山県立博物館蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文2年(1533年
死没慶長14年(1609年)?
別名通称:七郎兵衛
:閑斎
法名:安津、安心
官位従五位下出羽守[1]、式部卿法印
主君宇喜多直家秀家
氏族宇喜多氏
父母父:宇喜多興家、母:阿部善定の娘
乳母:戸川秀安の母
兄弟直家春家、忠家、伊賀久隆室、牧国信
基家?、知家(宇喜多詮家、坂崎直盛)、女(富田信高継室)、女(高橋元種室)[1]
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宇喜多 忠家(うきた ただいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将宇喜多興家の子で、宇喜多直家の異母弟(母は阿部善定娘、または阿部善定の下女[2])。乳母戸川秀安の母。
生涯

天文2年(1533年)、宇喜多興家の子として生まれ[注釈 1]、古くから兄の直家を補佐してその創業を助け、備前富山城を居城とした。

天正3年(1575年)11月、兄・直家と共に備前国の金山寺を復興させる。復興について『遍照院中興縁起』は「就中旦那三宅朝臣直家宇喜多和泉守、同舎弟忠家」によって成就したと記しており、直家と忠家を並列させる記述の仕方[3]から、忠家は家臣ではなく当主・直家の実弟として勢力を有していたとされる。

天正6年(1578年)、毛利氏と共に尼子勝久山中幸盛ら尼子軍が籠城する播磨国上月城を攻めた際には、病気の兄に代わって宇喜多軍の総大将を務めている(上月城の戦い)。その後宇喜多は織田方へと離反し毛利と対峙することになるが、天正8年(1580年)に小早川隆景率いる1万5千の兵を辛川で迎え撃ち一方的な勝利を収め(辛川崩れ)、戦上手とされた隆景を破ったことにより毛利の攻勢を止めることに成功している。

天正10年(1582年)1月に兄・直家が病死し、直家の嫡男・秀家が後を継いだ。しかし、秀家はまだ10歳と若かったため、忠家が後見役として秀家を補佐した。先の辛川崩れのように合戦上手であったこともあり、秀家の陣代として大将を務めることも多く、秀家からは1万石を与えられている。

同年に起きた備中高松城の戦いでは秀吉方の黒田孝高らと築堤工事を行い勝利に貢献、毛利方との和睦により所領の画定に成功する。

また、忠家は豊臣政権にも参画していて、天正14年(1586年4月6日豊後大友宗麟大坂城に登城して秀吉に拝謁した時、秀家とともに忠家もいたとされる。

天正12年(1584年)、秀吉の推挙をうけ出羽守に叙任したが[4]、天正13年(1585年)夏の四国攻め以前に忠家は出家していたといい、翌天正14年(1586年)の夏から秋にかけて安津(安心)、式部卿法印と号した。また、同時期に秀吉の直臣に取り立てられ[5]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}家督を嫡男の宇喜多知家(後の坂崎直盛)に譲ったとされる。[要出典]

山科言経の日記『言経卿記』を分析した大西泰正によると、天正14年(1586年)から天正19年(1591年)にかけて、忠家は大坂で大村由己楠木正虎秀吉側近の人々と交流し、連歌会へ参加するなど風流な生活を送っていたという。天正14年(1586年)10月25日には公家九条兼孝を招いて源氏物語の講釈を受けたり、千利休から茶杓を贈られたのもこの頃と推定されている[6]

文禄元年(1592年)から始まる文禄の役では軍の総帥となった秀家の後見役として朝鮮半島に渡海した。文禄2年(1593年)1月の碧蹄館の戦いでは、軍議が長引いたことにいらだって先駆けをしり、同年2月の幸州山城の戦いでは負傷したが書状のなかで傷が痛まないことを述べるなどの逸話があるという[7]

慶長4年(1599年)、主君・秀家と、家老の戸川達安、忠家の子・知家や古参の花房職秀などが対立した宇喜多騒動と呼ばれる内訌が起きると、大坂で隠居した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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