宇和島運輸株式会社
Uwajima Unyu Ferriesファンネルマーク
種類株式会社
本社所在地 日本
〒796-0089
愛媛県八幡浜市出島1581番地26[1]
本店所在地〒798-0003
愛媛県宇和島市住吉町三丁目2番18号
設立1884年12月1日[1]
業種海運業
法人番号9500001015293
宇和島運輸株式会社(うわじまうんゆ)は、愛媛県八幡浜市出島1581番地26に本社を置く海運会社。同市の八幡浜港と大分県別府市の別府港、臼杵市の臼杵港を結ぶフェリー航路を運営している。社名に「宇和島」を冠しているが、宇和島港からの航路はなくなっており、宇和島市には登記上の本店のみが残っている。 宇和島から阪神や九州各地を結ぶ航路は明治以前から開設されていたが、個人経営の船問屋や回漕業者によるものが主であった。1884年(明治17年)5月、60余りの船主が集まり大阪商船が設立され、瀬戸内海を汽船で運航する定期航路が宇和島にも寄港するようになったが、高価な運賃や決して質の良くない客扱い、荷扱い等に地元の不満がくすぶり、およそ半年後の同年12月には地元経済人有志により宇和島運輸会社が設立された。1885年(明治18年)5月には第1船「第1宇和島丸」が就航し、宇和島から大分・別府経由で大阪まで運航される独自の定期航路を開設[2]。 当時は瀬戸内海の各港へ寄航しつつの航海であり、宇和島港から大阪港まで3日、1往復に8日を要した。それでも帆船による頃と比べると、所要時間の短縮は画期的といえるものであった[2][3]。 宇和島運輸と大阪商船は様々なサービスで激しく誘客(誘貨)を競った時期もあったが、1906年(明治39年)に協定を締結した。「宇和島港」も参照 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、沿岸航路や陸上交通にも進出、太平洋戦争前には所有28隻を数え、内航定期航路のほか、朝鮮、中国への貨物輸送にも進出した。太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)には企業統制による関西汽船の設立に参加、社船10隻を現物出資の上すべての旅客航路を譲渡し、自社は内外の貨物輸送に注力することとなった[4]。 戦時中には全船舶を徴用され、うち15隻を喪失、終戦時には小型貨物船3隻が残存するのみという惨状であった[4]。さらに独占禁止法の制定に当たって、沿岸航路の盛運汽船と陸上交通の宇和島自動車を分離するなど、きわめて厳しい状況に直面した。一方、1948年(昭和23年)5月、関西汽船への出資が還元され、戦禍を免れた「あかつき丸」ほか4隻が返還となり、旅客航路の運航が再開されることとなった。 終戦直前に国鉄予讃本線が全通し、宇和島発着の瀬戸内海航路は旅客航路としての競争力を失っており、戦後は四国 - 九州連絡航路を中心に、阪神航路は四国沿岸を結ぶ貨物航路として運営、ほかに広島 - 別府航路を瀬戸内海汽船と共同運航するようになった[4]。 1960年代には戦後初の新造客船「べっぷ丸」が就航するが、この頃から全国的に自動車航送船(フェリー)が台頭し、四国 - 九州航路においても、同社をはじめ、日本道路公団、青木石油などが航路開設を計画していた[5]。同社の八幡浜 - 臼杵航路は九四フェリーボートとともに認可され、1964年(昭和39年)九四フェリーボートが運航を開始、宇和島運輸は翌1965年(昭和40年)に新造フェリー「おれんじ」が就航し、以後激しく競合するようになった。また、八幡浜 - 別府航路にも1967年(昭和42年)にフェリーが就航し[6]、1973年(昭和48年)には運航全船のフェリー化が完了した。 フェリー化の波は広島 - 別府航路にも及び、1970年(昭和45年)2月、瀬戸内海汽船との共同出資により広別汽船を設立し[7]、旅客船2隻の運航を新造フェリー1隻による運航に置き換えた。 1972年(昭和47年)12月には累積債務が11億8,000万円にのぼり、役員の交代と資本金の90%減資が実施された[8]。貨物航路は他社や個人船主からの傭船による運航となっていた[9]が、翌1973年(昭和48年)に撤退した。 フェリー化以後は八幡浜港が拠点となり、宇和島発着は一日1往復が残って1984年(昭和59年)に別府直航化した[10]。また、寄港地の三崎港は1980年代まで艀による乗下船が続いた[10]が、港湾改良によって接岸可能になり、1991年(平成3年)からは同港での車両航送を開始、1993年(平成5年)に三崎 - 別府航路として分離され、寄港便は廃止された。 1987年(昭和62年)、九四フェリーボート、宿毛観光汽船との共同出資により八幡浜佐伯フェリーを設立し、八幡浜 - 佐伯航路の運航を開始[11]したが、1992年(平成4年)に九四フェリーボートに全株式を売却[12]、撤退した。また、1995年(平成7年)に広別汽船の株式を瀬戸内海汽船に売却し、こちらも撤退した。
歴史