宇和島城
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logo宇和島城
愛媛県
天守
別名鶴島城、板島丸串城(旧称)
城郭構造梯郭式平山城
天守構造複合式望楼型3重3階(慶長6年〈1601年〉築、非現存)
独立式層塔型 3重3階(寛文11年〈1671年〉再、現存)
築城主藤堂高虎
築城年慶長元年(1596年
主な改修者藤堂高虎伊達宗利
主な城主伊予西園寺氏戸田氏富田氏藤堂氏伊達氏
廃城年明治4年(1871年
遺構現存天守・門、石垣
指定文化財重要文化財(天守)
国の史跡
宇和島市指定有形文化財(上り立ち門)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒 / 北緯33.2194778度 東経132.5652361度 / 33.2194778; 132.5652361 (宇和島城)座標: 北緯33度13分10.12秒 東経132度33分54.85秒 / 北緯33.2194778度 東経132.5652361度 / 33.2194778; 132.5652361 (宇和島城)
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宇和島城(うわじまじょう)は、四国伊予国宇和郡宇和島(現在の愛媛県宇和島市丸之内)にあった日本の城江戸時代宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年昭和12年〉指定)。別名鶴島城。
概要宇和島城天守(1928年代表紋章:宇和島笹

宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある[1]

現在、見られる天守などの建築は宇和島伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。外堀などの外郭ラインが五角形となる縄張りは、幕府隠密江戸に送った密書(『讃岐伊予土佐阿波探索書』)には「四方の間、合わせて十四町」と誤って記され、この史実から高虎の巧みな設計として「空角の経始(あきかくのなわ)」の伝説が生まれたとされる。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。そればかりではない。この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった[2]

宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城には、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである[2]

城を囲む五角形の堀は高虎の後の大名にも代々受け継がれ、三大海城の一つと謳われたが現在は堀も海も埋め立てられており、その面影は大きく失われている。明治以降は大半の建物が撤去され、城郭は戦後「城山公園」として整備された。建物は、天守、追手門などが残されたが太平洋戦争中の空襲により追手門を焼失し、現在は天守重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣と山里倉庫(城山郷土館)が現存する。又、予算の関係で門、櫓、土塀等の建物の木造復元計画はない。
歴史・沿革
平安時代から安土桃山時代

天慶4年(941年) - 警固使・橘遠保藤原純友の乱鎮定の際、この地に砦を構えたとされる。その後、この砦が板島丸串城と呼ばれるようになる。

建仁3年(1203年) - 西園寺公経が伊予国の知行国主となる。

室町時代中期 - 松葉城の西園寺家支流である西園寺公広が宇和莊の代官に補任され当地の開発にあたる。この西園寺家支流の家が来村殿と称される。

室町時代末期 - 豊後の大友氏による侵攻が相次いだため、橘遠保が砦を築いた跡地に板島丸串城が築かれる。史書には来村殿西園寺家家臣の道免城主家藤監物が城代であったことが記される。

永禄3年(1560年)- 大友氏の軍勢が宇和郡を侵攻。一時的に大友氏に降る。その後、度々大友氏や土佐一条氏の侵攻を受けるが撃退する。

天正3年(1575年) - 黒瀬城主の西園寺公広が来村坂下津の亀ヶ渕城に居城していた弟である西園寺宣久を入城させ、家藤監物は持城の道免城へ戻る。

天正13年(1585年) - 豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代を務めた。

天正15年(1587年) - 隆景が筑前国に転封となり、代わって伊予大洲十万石を拝領した戸田勝隆大洲城に入城。戸田与左衛門が城代となった。

同年11月頃 - 一揆勢が板島丸串城を包囲した。戸田勝隆は三間土居清良に鎮圧を命じる。

天正16年(1588年) - 2月、戸田勝隆が板島丸串城に入城し一揆勢を完全鎮圧

文禄4年(1595年) - 藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。板島を宇和島と改める。

慶長元年(1596年) - 藤堂高虎が板島丸串城の地に本格的な築城工事城の建造を開始。


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