孫運?
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中華民国政治家孫 運?

生年月日1913年11月20日
出生地 中華民国 山東省蓬?県
(現:煙台市蓬?区
没年月日 (2006-02-15) 2006年2月15日(92歳没)
死没地 中華民国 台北市
出身校ハルビン工業大学校
所属政党 中国国民党
配偶者兪寢
中華民国
第10代 行政院長
在任期間1978年5月26日 - 1984年5月25日
総統?経国
中華民国
第13代 経済部長
内閣厳家淦内閣
?経国内閣
在任期間1969年10月1日 - 1978年5月29日
総統?介石
厳家淦
中華民国
第7代 交通部長
内閣厳家淦内閣
在任期間1967年11月29日 - 1969年10月1日
総統?介石
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孫 運?
職業:政治家
各種表記
繁体字:孫 運?
簡体字:? ??
?音:S?n Yunxuan
注音二式:Su?n Yunshiuan
和名表記:そう うんせん
発音転記:スン・ユンシュアン
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孫 運?[1](そん うんせん、1913年民国2年〉11月10日 - 2006年〈民国95年〉2月15日)は、中華民国台湾)の政治家、高級技官。

ハルビン工業大学校を卒業後、国共内戦後に中華民国政府に従って共に家族と台湾に逃れ、台湾電力総経理交通部長経済部長行政院長を歴任した。政府要職に就任した20年間で十大建設を推進し、李国鼎と共に新竹科学業園区設置を推進し、台湾の初期科学技術政策を立案した。現在の台湾では、台湾科学技術の基礎を築いた人物として「台湾経済的推手」と称されている[2]

1984年2月24日、行政院長就任中に脳溢血を患いながらも、病状の回復と共に車椅子により政界に復帰した。その行動と言語能力の一部を喪失しながらも政界に復帰した孫運?は中国国民党を初め台湾政界に影響力を有し、その後4年間にわたり国民党の元老として影響力を行使し、総統選挙では連戦候補の応援活動を行っている。2006年2月、合併症により台北市内で92歳で逝去した。

2014年10月、晩年の26年間を過ごした台北市中正区重慶南路二段6巷10号の旧邸が「 孫運?科技?人文紀念館 」としてリニューアルし、一般公開を開始した。
生涯
青年期

1913年、孫運?は山東省蓬?県の一般家庭に生まれた。父親の孫蓉昌が不在がちであったことから、孫運?は幼年期は親族から疎まれるなどをしたが、その苦境がその後の強烈な個性へと繋がっている。

1925年、幼少より文学者を夢見ていた孫運?であるが、父親の中国に必要な人材は工学とロシア語であるという意見を容れ、父親と共にハルビンへ移り、ロシア人向けの教育機関である露僑実業中学に入学しロシア語を学んだ。1927年、孫運?はハルビン工業大学校予科で学び7年[3] の大学生活を送ることとなった。在学時代の成績は極めて優秀であり、1934年に首席で卒業している。
日中戦争期

1934年、ハルビン工業大学校を首席で卒業した後は、人材の流出を制限していた満洲国から商人に扮して脱出、母親と共に弁護士をしている父親を頼り天津に移り、その後江蘇省連雲港の発電所建設に参加している。そして自ら発表した送電ネットワークに関する論文(「配電網新算法」)が注目を集め南京国民政府資源委員会に招聘され湘潭湘江発電所の準備建設に携わった。

1937年日中戦争が勃発、孫運?は戦時臨時発電所の設置に従事し、その後政府の指示により、自力で輸送部隊を結成し、湘江発電所のタービンを3カ月かけて徒歩で陝西から重慶に移設している。更に政府命令により青海省に赴き、省内発の発電所を建設し自ら所長に就任した。その後発電所建設と移設の功績が認められ、孫運?は政府から米国テネシー州のダム管理局への視察出張を命じられた。その後1945年に帰国している。
技術官僚時代孫運?と当時台湾電力修復を担当した工専学生との集合写真。右から4番目が孫運?

1945年10月、孫運?は台湾電力の機電処長に就任、台湾電力の電力供給システムの修復を担当した。当時の台湾電力は連合国軍による空襲で甚大な被害を受けており、発電能力はかつての10%までに落ち込んでいた。旧台湾電力株式会社日本人技術者の協力を得て34名の中国人技術者、日本統治時代に活躍した朱江淮等と協力し、省立台北工業職業学校台湾省立工学院の3、4年生を実地研修させながら修理を行い、5ヶ月の間に台湾島内の80%の電力供給を復旧させ、1946年10月30日に日月潭発電廠(現在の大観一廠)の戦後復興作業が終了にしたことを宣言している[4]

1950年、国共内戦の結果台湾に移転した中華民国政府は外貨準備高が枯渇し国家財政破綻の危機を迎えた。同年総工程師に昇格した孫運?は各方面との折衝に当り、米国企業から200万アメリカドルの融資を受け、烏来水力発電所、台湾東西部送電連絡線、立霧発電所、新竹変電所などの設備を整備した。その中で台湾で初めて自力で設計・建築された烏来水力発電所は台湾の工業史の中で大きな意義を有した。これらの工業成果と、朝鮮戦争により米国政府が国民政府を反共勢力として重視したことで、米国により台湾の電力建設への積極的な支援が行われ1957年までに台湾の発電量は2倍に増加、その中で孫運?は将来の台湾の発電は水力から火力になることを予想し火力発電所建設が推進された。

その後台湾電力総経理に就任した孫運?は、米国政府の「大甲渓総合開発計画」への支援を獲得、徳基ダムの建設やMOB方式による会社制度の確立と農村の電化を推進し、当時の台湾の電力普及率は日本韓国を凌ぐ99.7%を達成した。

1964年、台湾電力の業績は世界銀行の耳目を集め、孫運?はその招聘を受けナイジェリア国家電力会社に出向しCEOに就任した。在職した3年間、孫運?は国際プロジェクトであるニジェール川水力発電計画を推進し、ナイジェリの発電量を88%増加させることに成功した。しかし台湾に残した母親の病状が悪化したことにより1967年に職を辞して台湾に帰国している。
交通部長および経済部長時代工業技術研究院

1967年末、技術官僚として政府中枢より注目されていた孫運?は厳家淦内閣で交通部長に就任した。就任した孫運?はまず農村での道路整備政策を、その後全国の道路網整備を推進し台湾の自動車交通の基礎を築いた。また「十大建設」計画が推進されていた時期でもあったため、北迴線中正国際空港台中港、蘇澳港、鉄道電化、中山高速公路等の建設計画を担当した。

1969年、経済部長の陶声洋がで急死すると、孫運?は経済部長に転任した。


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