孫資
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孫 資(そん し、? - 251年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。は彦龍。并州太原郡中都県の出身。子は孫宏。孫は孫楚
略歴

幼くして両親を失い、兄夫婦に育てられ、太学で学んだ。王允は彼を一目見て只者でないと感じた。曹操司空になると彼を招聘したが、孫資は殺された兄の仇を討った直後であったので、家族を連れて河東郡へ逃げた。その後も郡に招聘されるものの応じなかったが、友人の賈逵に勧められて仕官した。そこで上計吏となり、荀ケから高く評価され尚書郎に任命されたが、断って河東へ戻った。(『三国志劉放伝注引『孫資別伝』)

孫資は県令を歴任し、参丞相軍事となった。魏国が建てられると劉放と共に秘書郎を任された。曹丕(文帝)が即位すると劉放と共にそれぞれ左丞・右丞となり、黄初年間初期に秘書が中書と改められると、劉放が中書監、孫資が中書令となってそれぞれ給事中を兼任した。また孫資は関中侯、劉放も関内侯を与えられ、機密を取り扱った。

黄初3年(222年)に孫資は関内侯となり、曹叡(明帝)が即位すると劉放と共に散騎常侍を加えられ、楽陽亭侯となった。太和年間末、遼東公孫淵を誘うため将を派遣したとき、孫資は他の臣下が反対する中で迎撃を主張して成功したため、その功績で左郷侯となった。青龍年間初め、侍中光禄大夫を加えられ、景初2年(238年)に遼東が平定されると、参謀としての功績により爵位を与えられ、中都侯となった。

曹叡は臨終の際、曹宇大将軍とし、夏侯献曹爽曹肇秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。しかし夏侯献・曹肇らは劉放・孫資を良く思っていなかった。そこで劉放・孫資は曹叡に司馬懿を起用するよう勧め、方針を変更させた。このため曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らが罷免されて、司馬懿と曹爽が曹芳を補佐することとなった。

曹芳(斉王)が即位すると劉放・孫資とも加増され、子にも爵位や官位が与えられた。正始元年(240年)には右光禄大夫・、儀同三司となり、同6年(245年)には中書令のまま衛将軍となった。翌年、地位を退いたが、曹爽らが殺されると復帰し、侍中・中書令となった。嘉平2年(250年)、驃騎将軍に任命されたが、翌年死去した。貞侯とされ、爵位は子の孫宏が継いだ。

孫宏の子が「枕流漱石」で有名な孫楚、孫楚の孫が『三国志』の注に引用されている『魏氏春秋』などの著作で有名な孫盛である。
参考文献

陳寿三国志』劉放伝、同裴松之注










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵

田疇

王修

?原

管寧

王烈

張?(中国語版)

胡昭


巻12 崔毛徐何?鮑司馬伝

崔?

毛?

徐奕

何?

??



司馬芝

司馬岐(中国語版)


巻13 鍾?華?王朗伝

鍾?

鍾毓


華?

王朗

王粛

孫叔然


巻14 程郭董劉?劉伝

程c

程暁


郭嘉

董昭

劉曄

?済

劉放

孫資


巻15 劉司馬梁張温賈伝

劉馥

司馬朗

梁習

張既

温恢

賈逵

巻16 任蘇杜鄭倉伝

任峻

蘇則

杜畿

杜恕


鄭渾

倉慈

巻17 張楽于張徐伝

張遼

楽進

于禁


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