孫 ?(そん しょ、? - 永安6年(263年))は、中国三国時代の呉の政治家。 交阯太守を務めていたが貪欲・暴虐で、郡民からは憂いの元とされた[1]。腕の良い工人千余人を徴用して建業へ送ったこともあった。 永安5年(262年)、呉の皇帝・孫休[2]は、察戦のケ荀[3]を交阯に派遣し、孔雀と大猪の調達を命じた。ケ荀が来訪すると、郡民はまた徴用されるのではと恐れた[4]。 そこで永安6年(263年)5月、郡吏の呂興がこの機に乗じて反乱を起こし、孫?・ケ荀を殺害し、魏に服属した。反乱は交州一帯にまで広がり、虞・陶?らがこれを平定する建衡3年(271年)まで続いた[5]。
生涯
出典
陳寿撰、裴松之注『三国志』巻48 呉書 孫休伝(中国語版ウィキソース
脚注[脚注の使い方]^ 房玄齢等『晋書』陶?伝
^ 陶?伝では孫皓の時代のこととする。
^ ケ荀の名は陶?伝より。『三国志』魏書 陳留王紀ではこれをケ句とする。
^ 陶?伝によると、ケ荀は孔雀三千頭を徴発して輸送を命じ、人々はこの夫役に苦しんだという。
^ 『三国志』呉書 孫皓伝