孫策
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孫策

後漢
討逆将軍・会稽太守・呉侯
出生熹平4年(175年)
揚州呉郡富春県
死去建安5年4月4日[1]200年5月5日
?音S?n Ce
伯符
諡号長沙桓王
別名?児[2]
主君袁術→独立勢力
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孫 策[3](そん さく)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県[4] の人。

若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉?を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙王に封じられ、桓とされた。
生涯
雌伏の時代

父の孫堅が反乱の鎮圧に参加していた時期、孫策は寿春で母や弟たちと共に暮らしていた。孫策が十数歳の時に、江淮一帯で名声を得る。やがて名家出身の周瑜はその名を聞き、彼を訪ねてきた。中平6年(189年)、周瑜の招きによって母と弟たちを連れて廬江郡舒県に移住した(『江表伝』)。周瑜は大きな屋敷を孫策の一家に譲り、家族同然の付き合いをしたという。同地の太守陸康に謁見したが、陸康が孫策に対して無礼な態度を取ったため、孫策は不満を抱いていた。

初平2年(191年)に父が劉表との戦いで死去した(襄陽の戦い)後、袁術の配下の遺族として次弟の孫権とともに袁術軍に従って移動した[5]。一方、従兄の孫賁は孫堅の軍勢を引き継ぎ、この後主家筋にあたる袁術の軍に吸収されていた。その後、広陵の江都に在住中に張紘と知り合い、自分の母と弟たちを彼に託している(『呉暦』)。

初平4年(193年)、寿春に袁術の旗下に入った。このとき、自分の旗下には、現地で知り合った呂範と、一族である孫河のみが付き従っていた。孫策は袁術の勧めで丹陽太守呉景を頼り挙兵する。初陣で丹陽の一揆の首領の祖郎に攻められ大敗したが、呉景の建言に従って孫河、呂範らと共に祖郎を攻撃し敗走させた。のち袁術の元に帰った。

興平元年(194年)、袁術に対し孫堅の軍の返還を求め、1000人強の兵を得る。数こそ少なかったが、その中には朱治黄蓋韓当程普といった、孫堅軍の中核を成した武将たちが揃っていた。また、馬日?により上表され、懐義校尉に任命された。袁術は孫策を遣って陸康を攻めさせ、翌年には舒県を撃破し、廬江を得た。しかし袁術は戦功を認めず、側近である劉勲を廬江太守に任命した。

袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた(太守の約束を反故にされたとあるが、孫策は出仕したばかりである)。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張昭張紘秦松、陳端といった知謀の士や、?欽周泰陳武凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。
劉?を倒す詳細は「孫策の江東平定」を参照

袁術と揚州刺史である劉?は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉?と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策は、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。孫策軍が歴陽に到達するまでに多くの兵が孫策軍に加わり、最初1000人強しかいなかった孫策軍は5千人以上に膨れ上がっていた。

興平2年(195年)、劉?の部将の張英が守る当利口と于糜樊能が守る横江津を制圧して長江を渡り、劉?が篭っていた牛渚の要塞も陥落させ、大量の食料や軍需物資を奪った。敗れた劉?は曲阿に逃走した。更に孫策は劉?を攻め、劉?の部将の?融薛礼と交戦し、薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)を制圧した。その間に牛渚を樊能・于糜に奪われたが、すぐに奪還した。再び長江を下って?融を攻めたが、矢が太ももに当たり負傷し、後退した。孫策が死んだと思った?融は部将の于茲に追撃させたが、孫策は伏兵を用いて于茲に大勝した。その後、孫策は堅固な?融の軍営を避け、劉?に服属する諸県を攻略していった。

あるとき、劉?の部将である太史慈がただ1騎で孫策軍を偵察していると、韓当宋謙黄蓋ら13騎を従えた孫策に遭遇した。太史慈は刀を前に構え、孫策に正面から打ちかかった。孫策は太史慈の馬を刺し、太史慈がうなじに巻いていた手戟を掴み取ると、太史慈は孫策の兜を取った。このとき両軍の騎兵が殺到すると2人は軍とともに引き下がった。

やがて劉?は拠点であった曲阿を捨てて逃亡する。主のいなくなった曲阿を落とした孫策は、ここを拠点として勢力の拡大を図った[6]。また、劉?を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守と自称して孫策に対抗する。
袁術からの独立

地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従兄の孫賁の軍を返す。また、周瑜も一旦叔父である丹陽太守周尚のもとに帰った。周瑜は丹陽における孫策の支配をより強固なものにしていった。

建安元年(196年)、曲阿を始めとする丹陽郡を手中にした孫策は、呉郡、会稽郡の攻略に取り掛かる。呉郡太守であった許貢には朱治を派遣して勝利し、会稽太守であった王朗には当初苦戦したが孫静の策により勝利した。戦いに敗れた許貢は抵抗勢力であった厳虎のもとへ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。また、独立勢力となっていた太史慈を打ち破り、自らの部下として迎えた。

建安2年(197年)、孫策の勢力が強大化するのを怖れた袁術は、一族の袁胤を丹陽太守に任じ、孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤を追放し、ついに袁術に対して独立を宣言する。孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。

これに憤った袁術や陳?は丹陽郡の宋部一揆の首領の祖郎らを扇動して孫策を攻めさせたが、孫策は孫輔程普、呂範らとともに祖郎と戦い、激戦の末に祖郎を生け捕りにした。祖郎は孫策の部下となり、門下賊曹に任命された。
躍進

江東の支配を宣言した孫策は、自らの体制を整えるべく人材登用を積極的に行った。その中には呂蒙や、元は王朗配下であった虞翻も含まれていた。また、自ら会稽太守を称するとともに、江東の周辺郡の太守を任命した。

孫策は電撃的に江東一帯を制覇したが、その苛烈な勢いがゆえに怨恨を抱かれ、各地に根強い抵抗勢力を抱えることになった。江東に抵抗勢力を抱える限り中原への進出は実現できないため、孫策は抵抗勢力の粛清に乗り出した。これにより厳虎をはじめとして、抵抗勢力である江東各地の地元豪族王晟・鄒他・銭銅らその一族、地方宗教勢力が粛清された。このとき、かつて呉郡太守であった許貢は「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上奏しようとしたが、これを知った孫策は怒り、粛清対象として許貢を殺害した。

やがて袁術が皇帝を僭称し始めると、孫策は反袁術の姿勢を鮮明にするため、献帝を擁する曹操に近づく。根強い抵抗勢力が多く存在する江東を支配するためにも朝廷の権威が必要であった。しかし両者の関係は微妙なものであり、袁術の死を契機に崩れてしまうことになる。

建安4年(199年)、袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍はこぞって劉勲のもとに身を寄せることになった。滅びたとはいえ多勢の袁術残党は劉勲の南北に割拠する気鋭の孫策と曹操には魅力的であり、双方ともこの兵力を自軍に組み込むべく工作を謀った。

孫策は劉勲に対して「上繚には宗教勢力が闊歩しており、それらへの対応に困っています。協力して討ち取りましょう。もし討ち取る事ができれば、宗教勢力の兵力も手にする事ができるでしょう」といった内容のへりくだった手紙を送った。それ以前、劉曄は劉勲のもとへ兵を送り、その客となっていた。劉曄は劉勲に対して孫策の手紙の意図と危険性を説明したが、劉勲は聞き入れず、孫策を信用して上綜へ攻め入った。孫策はこれを機に留守となった劉勲の本拠である皖に急行してこれを陥落させ、旧袁術軍ならびに楽隊や袁術の妻妾、子女などを一挙に手中に収めることに成功した。後に自らのとした橋公の娘大喬や、同じく橋公の娘で周瑜の妻となる小喬、他にも孫権の妻となる歩夫人袁夫人もこの際に捕虜にしている。

進退極まった劉勲は西塞山に陣を敷き、夏口の黄祖に助けを求めた。黄祖は息子の黄射を援軍に立てて西塞山に向かわせたが、孫策はその救援が到着する前に早々と西塞山を陥落させた。劉勲は少数の部下と共に曹操のもとへ逃げ落ち、孫策は廬江を手に入れた。

大軍を手中にした孫策は、次の敵として劉表配下の黄祖に攻撃を向ける。黄祖は父・孫堅の仇であるため、孫策が揚州・廬江を手にしたことで目と鼻の先の勢力同士にもなった両者の対立は必至であった。黄祖は劉表に援軍を求め、劉表からは劉虎らが増援として送られた。


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