末帝 孫皓
呉
第4代皇帝
清代の書物に描かれた孫皓
王朝呉
在位期間元興元年7月25日 - 天紀4年3月15日
(264年9月3日 - 280年5月1日)
都城建業
武昌(265年 - 266年)
姓・諱孫皓
字元宗
生年赤烏5年(242年)
没年太康5年(284年)12月
父孫和
母何姫
后妃滕皇后
陵墓?山
年号元興(264年 - 265年)
甘露(265年 - 266年)
宝鼎(266年 - 269年)
建衡(269年 - 271年)
鳳凰(272年 - 274年)
天冊(275年 - 276年)
天璽(276年)
天紀(277年 - 280年)
孫 皓(そん こう)は、三国時代の呉の第4代皇帝。祖父は初代皇帝孫権。父は孫権の第3子で皇太子に立てられていたが廃された南陽王孫和。『三国志』呉書 三嗣主伝に伝がある。 赤烏5年(242年)、孫和の長男として生まれると孫権は喜び、彭祖という名前を与えた。 第2代皇帝の孫亮の時代である建興2年(253年)、廃立後長沙に押し込まれていた孫和は孫峻と全公主(孫魯班)のために新都郡に強制移住となった上で、自殺を命じられた。孫和とその正妻の張妃は自殺し、孫皓は異母弟たちと生母の何氏に育てられた。 孫休の時代に当たる永安元年10月28日(258年12月10日)、孫皓が烏程侯、その弟の孫徳が銭唐侯、孫謙が永安侯に封じられた[1]。任国に赴いた孫皓は民の景養という人物から高貴に昇る人相と告げられ、内心喜んだがそれを人には漏らさなかった。またこの時期、妻として滕芳蘭を娶った[2]。 永安7年7月25日(264年9月3日)、孫休が死去した[3]。当時の呉は前年に盟友の蜀が魏の侵攻により滅亡し、かつ交阯が魏に離反しているなど厳しい情勢にあり、立派な指導者を必要としていた。かつて烏程県令であり孫皓とも親しかった左典軍の万ケは孫皓を称賛し「長沙桓王(孫策)の再来である。そして法を遵守し、学問を好む」と評し、孫休の側近であった丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけた。濮陽興と張布は孫皓を皇帝にする旨を朱太后(孫休の皇后で、朱拠の娘)に述べたところ、朱太后の承諾を得た。こうして孫皓は23歳で皇帝に即位した。元興と改元し、大赦を行った。 元興元年(264年)8月、上大将軍の施績と大将軍の丁奉を左右の大司馬に任命した。張布を驃騎将軍に任命し、侍中を加官した。その他、多くの人達の位階が進み、恩賞が賜与された。 9月、太后の朱氏の位を下げて景皇后とし、父の孫和に諡号を与えて文皇帝とした[4]。生母の何氏の位を上げて太后とした。 10月、孫休の4人の子のうち、太子であった孫?(雨+單)を豫章王に、その弟らを汝南王・梁王・陳王に封じた。妃の滕芳蘭を皇后とした。 孫皓は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという[5]。やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。濮陽興と張布は孫皓を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫皓に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。 12月、孫休を定陵に葬った。滕皇后の父の滕牧を高密侯に封じ、母方の叔父の何洪
生涯
皇帝即位へ
暴政
甘露元年(265年)3月、孫皓は光禄大夫の紀陟と五官中郎将の弘?とを魏への返礼の使者に送り、徐紹と孫ケとに同行させた。しかし、途中で徐紹が魏を賞讃しているという話を耳にしたので、徐紹を濡須で呼び戻して殺害し、一家眷属を建安に強制移住させた。
7月、孫皓は景皇后の朱氏を迫害し、死においやった。人々は死の場所や葬儀のやり方から朱氏の死が病死でないことを知り、悲しんだという。また、孫皓は孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。
9月、西陵督である歩闡の上表により、武昌へ遷都した。御史大夫の丁固と右将軍の諸葛?が建業の守備にあたった。
魏への使者となった紀陟と弘?は洛陽に到着したが、ちょうど司馬昭が死去していたところであったので、11月に魏より送り返された。
孫皓は武昌に至ると、大赦を実行した。零陵郡の南部を分割して始安郡を設置し、桂陽郡の南部を分割して始興郡を設置した。
宝鼎元年(266年)正月、司馬昭の弔問のため、大鴻臚の張儼と五官中郎将の丁忠を晋への使者として送った。張儼はその帰途で病没した。丁忠は晋が防戦の備えを怠っているとして、孫皓に弋陽への侵攻を勧めた。孫皓はこの軍事行動について群臣らの評議にかけたところ、鎮西大将軍の陸凱が反対し、車騎将軍の劉纂が賛成した。孫皓は内心では劉纂の意見を取り上げたいと思っていたが、躊躇しているうちにそのまま沙汰やみとなった。
8月、陸凱を左丞相に、万ケを右丞相に任命した。
10月、永安の山賊の施但らが数千人の徒党を集め、孫皓の弟の孫謙を脅迫して烏程まで進み、孫和の陵にあった楽器や曲蓋を奪い取った。施但らが建業にまで至ったときは徒党の数は数万人に膨れ上がっていた。丁固と諸葛?は施但らと牛屯で激しく戦い、施但らを敗走させ、孫謙の身柄を取り戻したが、孫謙は自害した。
12月、孫皓は都を建業に戻し[7]、衛将軍の滕牧を武昌の守備に置いた。
宝鼎2年(267年)春、大赦を実行した。右丞相の万ケが長江を遡り巴丘の守備に就いた。
6月、顕明宮[8]を建てた。
12月、孫皓は顕明宮に移ってここに起居した。
宝鼎3年(268年)2月、左右の御史大夫であった丁固と孟宗を、それぞれ司空と司徒に任命した。
9月、孫皓は東関に出兵し、丁奉は合肥に軍を進めた。
この年、交州刺史の劉俊・前部督の修則・荊州刺史の顧容らを交阯に侵攻させたが、晋の将の毛Q・董元のために敗北し、劉俊・修則の2人は戦死した。兵は顧容が収めて合浦に帰還した。
宝鼎4年(269年)正月、子の孫瑾を皇太子とし、他に淮陽王[9]と東平王を立てた。10月、建衡と改元し、大赦を行った。11月、左丞相の陸凱が死去した。
監軍の虞、威南将軍の薛?、蒼梧太守の陶?らが荊州より、監軍の李勗、督軍の徐存らが建安から海路で進軍し、合浦で集結し交阯を攻撃しようとした。
建衡2年(270年)春、万ケが建業に帰還した。李勗は建安の道が通行困難となったため、導将の馮斐を殺害し、軍を引き揚げさせた。
4月、左大司馬の施績が死去した。
殿中列将の何定が「少府の李勗が馮斐をみだりに殺し、勝手に軍を帰還させた」と讒言した。李勗と徐存の一家眷属は皆殺しとなった。
9月、何定の将兵5000人が長江を遡り、夏口で巻狩りを行った。都督の孫秀が出奔し晋に亡命した。
この年、大赦が実行された。
建衡3年(271年)正月晦、孫皓が大勢を引き連れて華里にまで進んだ。孫皓の母や妃妾まで皆同行した。東観令の華覈らが必死で止めたため、引き返した。
この年、虞と陶?は交阯を陥落させ、晋の置いた守将らを皆斬るか生け捕りにし、九真郡と日南郡は皆呉に服属した。