孫武
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この項目では、春秋時代の将軍について説明しています。清末民初の革命家・政治家については「孫武 (清末民初)」をご覧ください。
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出典検索?: "孫武" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年3月)

孫 武(そん ぶ、紀元前535年頃 - 没年不詳[1])は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書孫子』の作者とされており[2]兵家の代表的人物。国出身。字は長卿[3]孫?の先祖。「孫子」は尊称である。鳥取県湯梨浜町燕趙園の孫武(孫子)像

「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。
伝記

孫武に関する資料としては正史『史記』の他、呉越の興亡について記した野史(載記)の『呉越春秋』、孫子の先祖や子孫について述べた唐の正史『新唐書』「宰相世系三下」が主要な資料となる。これらの古文献の記述する孫武の伝記は以下のようなものであるが、史実性に関しては後述のとおり論争の対象である。

それによると、孫武の出自は斉国の大夫で後に田斉公族田氏(?姓(中国語版))である[4]。孫武は若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹姜尚管仲らの用兵策略を研究したという。紀元前517年頃、一族内で内紛があり、孫武は一家を連れ、江南国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得る。孫武はその後、呉の王都・姑蘇郊外の山間に蟄居して『孫子』十三篇を著作した。

前515年、呉の王に闔閭が即位すると、伍子胥は闔閭に「孫子兵法」を献上し、七回にわたり登用を説いたため、闔閭は孫武を宮中に呼び出して兵法を問うた。この時のエピソードが『史記』巻65孫子呉起列伝第5[5]に記されている次の「孫子.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}勒(ロクす)[6]姫兵(キヘイを)」(孫子勒兵(ロクヘイ)とも)である。
孫子姫兵を勒す

闔閭「先生の著作十三篇はすべて読んだが、宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか」

孫武はこれを了承した。孫武は宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし、武器を持たせて整列させ、王の寵姫二人を各隊の隊長に任命した。

孫武が「左右前後がわかるか」と聞くと、一同「わかります」と答えた。孫武は「前といえば胸を、左と言えば左側、右と言えば右側、後ろと言えば背側を見よ」と言った。女性たちは「わかりました」と答えた。そこで将軍の印の鉄斧を置き、命令をはじめた。太鼓を打って「右!」と号令すると、宮女たちはどっと笑った。

孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」と言い、命令を何度も繰り返した後に「左!」と太鼓を打つと、また宮女たちはどっと笑った。

孫武は「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の二人を斬首しようとした。壇上で見ていた闔閭は驚き「将軍の腕は既によくわかった。余はその二人がいないと飯もうまくないので、斬るのはやめてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる事がございます」と闔閭の寵姫を二人とも斬ってしまった。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。

孫武は「兵は既に整いました。降りてきて見ていただきたい。水火の中へもゆくでしょう」と言ったが、闔閭は甚だ不興で「将軍はそろそろ帰られるがよろしい、余はそこに行きたくはない」と言った。孫武は「王は言を好まれても、実践はできないのですね」と答えた。以後、闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じたのである。
活躍とその後孫武の活躍した春秋時代の諸国の位置関係

前512年、孫武は将軍に任じられ、楚国の衛星国であった鍾吾(中国語版)国と国を攻略した。闔閭は勝利に乗じて楚国に進攻しようとしたが、孫武は「楚国は衰えてもいまだ強大です。また呉は戦いが続き兵が疲弊しています。今、楚を攻めるのは上策ではありません」と進言した。闔閭はこの意見に従い、また伍子胥の献策により、小部隊で楚の国境を絶えず挑発し、楚の大軍を国境に貼りつかせ、楚の国力を消耗させる作戦をとる。

6年後の前506年、楚は呉の保護下にあった地方領主・成公昭侯を攻め、二人は呉に救援を求めた。機が熟したと考えた闔閭は孫武と伍子胥を左右の将として軍を発し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武の陽動作戦によって楚軍主力は別の地域におびき出され、呉軍本隊が現れ首都に向かうとの情報で急遽転進してきたため、戦場に到着したときには強行軍の連続で既に疲弊しきっていた。三万の呉軍は二十万の楚軍を大いに破り、さらに進撃して五戦して五勝し、十日のうちに楚の王都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させる。強国・楚の大軍を寡兵で破ったこの戦いにより孫武の名は中原に轟いた。

その後、楚の臣の申包胥に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたので、呉軍はやむなく楚から撤退した。 以後呉は北方の斉、を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。

前496年、闔閭は孫武の意見を容れずを攻めたが苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷が悪化して死亡した。孫武は伍子胥とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たした。

孫武の後半生については記録が残っていない。後漢の『載記』が引く『呉越春秋』夫差内伝によれば、孫武は讒言する者があって辞職を願い出たといい、以後の呉国に関する史書からは、孫武に関する記述が途絶える。その後夫差は次第に慢心するようになり、讒言によって孫武の莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良に取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。

孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓が孫武のものであるという説もあるが確定していない。
史実性に関する論争

孫武が実在した武将なのかどうか、古くから中国史学者の間では論争が続いていた。そもそもで大活躍した武将にもかかわらず、呉に詳しい『春秋左氏伝』に孫武の話が全く登場しないというのが不自然である。その上、孫子兵法は兵法十三編のはずだが、『漢書』「芸文志」ではなぜか八十二編になっているなど謎が多いためである。

既に北宋の兵法家・梅堯臣が、「戦国時代の話のようだ」と孫子兵法と孫武の関係を疑問視していたが、南宋葉適はさらに一歩を進めて、以下のように孫武非実在説を唱えた。「春秋時代に、他国の人を将軍にした話は全くない。呉の人でもない孫武が、なぜ将軍になれたのだろうか?『春秋左氏伝』に孫武が登場しないのも、おかしいではないか。(結局)孫子の兵法は、春秋の末、戦国の初めの、名もない山林の隠者の作であろう。呉で大活躍したなどというのは、兵法家連中の大げさなデマ、でっちあげだ。闔閭の姫を斬った話など、実に異常ではないか。まったく信用が置けない」(『古今偽書考』に引く葉適の説)。

この説に賛同する者は多く、全祖望斎藤拙堂、斉志和らなどが孫武非実在説の学者は複数いる。理由を整理すると、『史記』以前の『春秋左氏伝』等の有力な古籍に孫武の名が全く見られないこと、「武」という名が出来すぎていること、『漢書』「芸文志」には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」あって、現行の十三篇の孫子と符合しないことなどである。


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