孫権
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大帝 孫権

初代皇帝
呉大帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵)
王朝呉
在位期間黄龍元年4月13日 - 神鳳元年4月26日
229年5月23日 - 252年5月21日
都城武昌(229年)→建業(229年後)
姓・諱孫権[注釈 1]
字仲謀[注釈 2]
諡号大皇帝
廟号太祖
生年光和5年5月18日
182年7月5日
没年神鳳元年4月26日[1]
252年5月21日
孫堅
呉夫人
后妃潘皇后
陵墓?陵
年号黄武222年 - 229年
黄龍229年 - 231年
嘉禾232年 - 238年
赤烏238年 - 251年
太元251年 - 252年
神鳳252年

孫 権(そん けん)は、三国時代武将の初代皇帝は仲謀(ちゅうぼう)。
生涯
家系について

孫氏は春秋時代兵法家であった孫武末裔である[2]。また陳寿は『三国志』の本文では父の孫堅は孫武の子孫と伝えられている[注釈 3]
幼年・少年期孫権と兄の孫策の像。左が孫権(武漢市)

光和5年(182年)、孫堅が下?県丞であった時、五男三女の第四子(次男)として生まれた。

光和7年(184年)、太平道張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを九江郡寿春県に残した。中平6年(189年)、一家は廬江郡舒県周瑜屋敷に移住した。

初平2年(191年)、孫堅が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)後、兄の孫策とともに亡父の主君である袁術の下に移された[3]

初平4年(193年)、孫策は正式に袁術の旗下に入った際、呂範を遣わして家族を曲阿に住む呉景の元へ送り届けた。翌年、孫策は袁術の為に廬江太守陸康を攻めた。揚州刺史劉?は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取って、呉景が丹陽郡を追われた。この時、孫策の家族はことごとく劉?の地盤に在ったため、朱治は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを引き連れて脱出し、これを保護した[4]。母と共に歴陽や後の阜陵に移住した。興平2年(195年)、孫策が劉?軍を破った後、孫策は曲阿に入って、部将の陳宝を阜陵に派遣して一族を迎えた。

建安元年(196年)、15歳にして出仕し、陽県令に任じられた[注釈 4]。孫策から可愛がられており、士人の人望も厚かった。孫堅が亡くなったばかりのころおよび、孫策が江東で自立する時代に、常に孫策に随従した。また計略や謀議があるたびに参画した。孫策は賓客たちとの宴会の時、孫権を顧み「この諸君があなたの将である」と言ったという逸話がある[5]。建安4年(199年)、孫策の廬江太守[[劉勲]]の征伐に従って劉勲を破ると、進んで沙曹ノ黄祖を討った(孫策の江東平定)。その時、行奉義校尉に任ぜられる[注釈 5]

建安5年(200年)初、漢王朝に対し臣従した孫策と曹操が同盟を結んだことがあったため、孫権と弟の孫翊が司空である曹操に招聘されたことがある。先遣として徐州広陵郡を攻め、陳登を苦しめた[注釈 6]。孫策が襲われて瀕死だったので、軍の帰還中に広陵太守の陳登に敗れた[6]
守成・拡張

建安5年(200年)春、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。朝廷から討虜将軍・会稽太守の官位を得ていた[注釈 7]張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・朱治・程普・呂範らをまとめあげると積極的な人材登用を行い、周瑜から皇帝としての資質を認められ、魯粛を薦められた[注釈 8]。その後も陸遜諸葛瑾歩?顧雍是儀厳o呂岱徐盛朱桓駱統らを登用した。

家督を継いだ当初は、会稽呉郡丹陽豫章廬江廬陵の江東六郡を領有するが、五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻すと、多くの人々が江東から逃げ出して中原に逃げた[7]。従兄の孫輔は、曹操との内通があったことが発覚したため幽閉され、弟の孫翊や孫堅の代からの臣である孫河が部下に殺害され、従兄の孫ロが反乱を企てたことなど、種々の困難に見舞われた。また、廬江太守の李術は曹操を頼って反乱を起こした。揚州刺史厳象を殺し、江東からの逃亡者を多く受け入れた。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した[8]。孫権が逃亡者返還を求めると、李術はこれを拒絶した。それに怒った孫権は、先に李術の非を曹操に説いた上で、自ら徐?・孫河を率いて皖城を包囲した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、曹操の援軍は来ず、食糧が底を突き落城した。孫権は、李術を討ち取り、皖城の兵・民衆3万人を得た。さらに、程普を率いて三郡で服さぬ者と連戦しこれを平定した[9]。山越が孫権に対して反乱を起こしたため、軍隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた。孫権は、裏切り者たちを一掃し江東各地を平定した。巧みな内政手腕を発揮して領土を安定させ、江東を治めた。

建安8年(203年)、孫権は自ら指揮を執って江夏を討伐し、父の仇である黄祖の軍を打ち破ったが、黄祖は城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越が背後で反乱が起こったため孫権は撤退した。孫権は豫章に戻り、呂範に命じてに?陽を平定させ、程普に楽安を討たせた。建安漢興南平の不服従民が再び背き、賀斉に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧が降伏してきたためこれを受け入れた。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。その後、広陵郡に侵攻し、これを占領した。

建安11年(206年)、孫権は周瑜・孫瑜凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜を得た。

建安13年(208年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮を執り討伐し、黄祖を討ち取り江夏郡の南部を落とした。

同年の末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向かったところ、劉jはなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[注釈 9]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった[5]。孫権は魯粛の進言を聞き入れ、荊州の動向を探るため、劉表の弔問使者として魯粛を派遣した。劉jが曹操に降伏し、劉備は長坂の戦いに敗れ夏口に駐屯していた劉gと合流した[10]。後に曹操の追撃により劉備は劉gと共に孫権領の江南に逃げ込んだが[11]、魯粛と面会し劉備に同盟を説いた。


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