孫子_(書物)
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孫子
著者孫武
中国
言語漢文
題材軍事戦略と戦術
出版日紀元前5世紀
文章孫子 - Wikisource
孫子の兵法書孫子の兵法書竹簡孫子』(1972年に中国山東省臨沂市の銀雀山から出土。山東博物館所蔵。)西夏語訳『孫子』孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町燕趙園に立つ

『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書武経七書の一つ。古今東西の軍事理論書のうち、最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。

『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった[1]。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。
構成

以下の13篇からなる。

計篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。

作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。

謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。

形篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。

勢篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。

虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。

軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。

九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。

行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。

地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。

九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。

火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。

用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわち
スパイ。敵情偵察の重要性を説く。

現存する『孫子』は以上からなるが、底本によって順番やタイトルが異なる。

上記の篇名とその順序は、1972年に中国山東省臨沂県銀雀山の前漢時代のから出土した竹簡に記されたもの(以下『竹簡孫子』)を元に、竹簡で欠落しているものを『宋本十一家注孫子』によって補ったものである。

『竹簡孫子』のほうが原型に近いと考えられており、『竹簡孫子』とそれ以外とでは、用間篇と火攻篇、虚実(実虚)篇と軍争篇が入れ替わっている。
内容
全般的特徴

非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について
老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)

現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)

主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)

戦争観

孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。

また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(戦争過程で無理をして素早く決着させた事例はある。決着に時間をかけてしまったが過程は上手だったという事例は無い。)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。

すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。
戦略

『孫子』戦略論の特色は、「廟算」の重視にある。廟算とは開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで、「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは敵味方の何を比較するのか。それは、

道 - 為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方

天 - 天候などの自然

地 - 地形

将 - 戦争指導者の力量

法 - 軍の制度・軍規

の「五事」である。より具体的には以下の「七計」によって判断する。
敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。

将軍はどちらが優秀な人材であるか。

天の利・地の利はどちらの軍に有利か。

軍規はどちらがより厳格に守られているか。

軍隊はどちらが強力か。

兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。

信賞必罰はどちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。

守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。

主導権を握って変幻自在に戦え。

事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。

敵と対峙するときは正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。

守勢のときはじっと鳴りをひそめ、攻勢のときは一気にたたみかける。

勝算があれば戦い、なければ戦わない。

兵力の分散と集中に注意し、たえず敵の状況に対応して変化する。

また、ジョン・ボイド は孫子の思想を以下のように捉えて機略戦を論考している。「機動戦#機略戦」も参照
所望結果(人命と資源の保護の観点)

「武力に訴えず戦わずして勝つこと」を最重視する。

長引く戦争を回避する。


所望結果を獲得するためのコンセプトと戦略
コンセプト


調和

欺瞞

行動の迅速性

分散/集中

奇襲

(精神的)衝撃

戦略


敵の弱点、行動パターン及び意図を暴くため敵の組織と配置を精査する。

敵の計画と行動を操り・敵の世界の見通しを形作る。

攻撃目標の優先順位は、1は敵の政策、2は敵方の同盟の分断、3は敵の軍隊、他に方策がない場合に限り都市、である。

敵の弱点に対して迅速・不意に全力を指向するように正攻法と奇襲の機動を行う。


テキストとしての『孫子』
成立について

孫武は、紀元前500年ごろの人物で、戦国時代の新興国であった闔閭に仕え、その勢力拡大に大いに貢献した。『孫子』の著者が本当に孫武であるのか、また『孫子』という書物の成立時期においては諸説入り乱れ、長期にわたって議論された。

歴史が進み、宋代に国力が全般的に衰退し、北方の少数民族が興隆するにつれていくと、様々な疑念が生まれた。北宋時代に『孫子』の注釈を行った梅堯臣は「果たして中国歴史上の各王朝は本当に史書に書かれているように盛んで、輝かしい大国だったのだろうか。それにとどまらず、そもそも孫子の存在の是非、『孫子兵法』の考え方は戦国的色彩が濃厚であり、作者孫武自体が虚構の存在だったのではないだろうか」と主張している。この説は、とりわけ影響が大きく後の知識人も『孫子兵法』に対して懐疑心を持つようになった。明代の李卓吾は次のように述べている。「孫子兵法は大方、孫武が春秋及びそれ以前の戦い、呉が楚を破った経験、呉王、伍員の軍事研究の考え方を整理したもの。百年余り、口伝え、書き写されて伝わったものを戦国時代になって孫?がまとめ上げ、増補し13編となった。これは『史記』が言うところの「世々伝えられた」兵法の著書である」[2]

しかし、孫子という尊称は、当時、兵法の専門家として諸国の君主の食客となっていた、いわゆる兵家の人々が、彼らの学派の始祖と仰いでいた孫武、孫?を呼んで言ったものであり、『孫子』も、孫武個人、孫?個人の著書というわけではない。戦国時代は、諸子百家と概括されたさまざまな思想の流派が形成されたいわゆる百家争鳴の時代だった。このなかで、孫子の兵法を研究する一派は、兵家の主流として活躍していたものと見られる[3]

現代人が通常手にするテキストは後漢曹操(武帝)が分類しまとめ上げたもの(『魏武注孫子』)であるが、それが『漢書』芸文志・兵権謀家類に載せられている『呉孫子兵法』82巻・図9巻という記述とは体裁が大きく異なるからである。また『孫子』の字を含む書物として、孫武の子孫とされる孫?の著作である『斉孫子兵法』89巻・図4巻も『漢書』に載せられており、その2冊の兵法書と2人の兵法家の関係について、不明な点が多々あったためでもある。最も著名な学説は武内義雄が「孫子十三編の作者」[4]で論じ、貝塚茂樹[5]がそれに賛同したように、孫子の本文に出てくる事物や思想が春秋時代にはあり得ないものが複数指摘されているため、『孫子』13篇の著者を孫?とするもので、『孫?兵法』発見以前は非常に有力であった。

しかし1972年山東省銀雀山の前漢時代の墳墓から『竹簡孫子』や『孫?兵法』が発見され、両書が別の竹簡の写本として存在し、従来伝えられる『孫子』はいわゆる『呉孫子』の原型をほぼとどめたものである。

後の経緯について述べると、孫?の兵法書は時代が下るにつれてさらに多くの兵家の家流が生まれ、それらの流派の中に『孫?兵法』は吸収発展されて、兵家思想の原典ともいえる『孫武兵法』だけが残ることになったとされる[6]。現在では以下のように考えられている。『孫子』は孫武が一旦書き上げた後、後継者たちによって徐々に内容(注釈・解説篇)が付加されていき、そうした『孫子』の肥大化を反映したものが『漢書』芸文志の記載である。


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