孫堅
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孫堅

後漢
破虜将軍・豫州刺史・烏程侯
出生永寿元年(155年[1]
揚州呉郡富春県
死去初平3年(192年)?[2]
荊州襄陽郡?山
?音S?n Ji?n
文台
諡号武烈皇帝
廟号始祖
主君霊帝朱儁張温献帝袁術
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孫 堅
各種表記
繁体字:孫堅
?音:S?n Ji?n
英文:Sun Chien
Sun Jian
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孫 堅(そん けん)は、中国後漢末期の武将。は文台(ぶんだい)[3]揚州呉郡富春県の人。妻は呉夫人。子は孫策孫権孫翊孫匡孫夫人孫朗廟号は始祖、諡号は武烈皇帝。
生涯
その出自

代の『四庫全書』の記載によると、孫堅は春秋時代兵家孫武の子孫と伝えられている[4]

熹平元年(172年)、孫堅が17歳の時立ち寄った銭唐県において海賊が略奪を行なっている状況に遭遇したため、それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍の指揮を執って海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。この件で孫堅は有名となり役所に召されて仮の尉(警察・軍事担当)となった[1]
各地で反乱鎮圧

司馬(軍事を司る職)になった孫堅は、172年から174年にかけて会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した[5]。この乱の鎮圧後、孫堅はその功績により揚州刺史臧旻によって上奏され、塩?県丞に任命される。数年後、??県丞や後の下?県丞に転任した。

光和7年(184年)、太平道張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、家族を九江の郡治寿春県に残した。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍の指揮を執り大勝利を収めている[6]。この功績により、別部司馬となった。

中平3年(186年)、昇進すると同時に、涼州辺章韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中郎将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空張温(後漢書董卓伝では、朝廷復以司空張?為車騎將軍,假節…としている)が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。

後漢の討伐軍の大軍が来ると聞いた辺章・韓遂軍は、恐れをなして散りぢりになり、辺章と韓遂は降伏し、孫堅は議郎となった。

孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した[7]。この時、廬江太守陸康の従子は宜春長であり、賊に攻められて孫堅に遣使して救援を求めた。孫堅が兵を整えて救援しようとしたところ、主簿が進みでて諫めた。孫堅は 「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。これによって罪を獲たとて、どうして海内に?(は)じようか?」と答え、かくして兵を進めて往って救い、賊はこれを聞くと退走した[8]。この功績により孫堅は烏程侯に封じられた。

このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化した[9]
董卓との戦い

この頃、洛陽では董卓が実権を握った。永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過した。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した[10]

次に前進して南陽太守の張咨の元を訪れ、これも自分にとって禍になるとみて殺害した。さらに前進して魯陽袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史を領させた。

この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅が指揮を執る軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、孫堅軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充しに戦線を離れたのに対して、孫堅は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続け、初平2年(191年)の陽人の戦いで孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。董卓は大督護の胡軫・騎督の呂布を派遣して、陽人の孫堅を攻撃させた。しかし呂布と胡軫は仲が悪く、二人配下の兵士は慌てて逃げたが、孫堅は部隊を指揮して追撃し、呂布と胡軫を敗走させた。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李?を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅はこれを断った。孫堅は出撃して大いに董卓を破り、董卓軍の都尉華雄を討ち取った。董卓は遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、長安へ逃れた。その際呂布は洛陽で孫堅と戦ったが、孫堅に再び敗れた[11]。孫堅は洛陽に入った。董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、暴かれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した[12]
横死

孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周?を豫州刺史として派遣したので、孫堅と袁術は周?・周昂周マと豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。孫堅と袁術は周?・周マを敗走させた。

初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽劉表を攻めさせた[13]。孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の?山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い[14][15]。享年37。

桓階が孫堅の遺体を劉表から取り戻した。孫堅軍は瓦解し、兄の子の孫賁はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を曲阿に送り届けた。後に寿春に移った袁術の傘下となった。

黄龍元年(229年)、皇帝となった次男孫権は、後に父孫堅の廟を長沙に、長兄孫策の廟を建業に建てた。
人物

立派な容貌で、性格は闊達であり、好んで他人にはまねのできぬような行いをしたという[16]

孫破虜討逆伝に見える孫堅評
陳寿の評
「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた
烈士である」[17]「行動が軽はずみで、結果を出す事を急ぐあまりに性急であった。そうした様が、自らを死に至らしめ、失敗する原因となった」[18]
裴松之の評
「同時代、義をもって立った人々の中で、最も忠烈の志があった」[19]
他伝に見える孫堅評


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