孫亮
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廃帝 孫亮

第2代皇帝
王朝呉
在位期間
建興元年4月28日 - 太平3年9月26日
252年5月23日 - 258年11月9日
都城建業
姓・諱孫亮
字子明
生年赤烏6年(243年
没年永安3年(260年
大帝
潘皇后
后妃全皇后
陵墓頼郷
年号建興252年 - 253年
五鳳254年 - 256年
太平256年 - 258年

孫 亮(そん りょう)は、三国時代の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(七男)。第3代皇帝孫休の異母弟。母は皇后潘淑。皇后は全尚の娘の全氏。少帝と呼ばれることがある。
生涯
幼帝として即位

赤烏6年(243年)、皇帝孫権と夫人潘淑との間の子として建業宮内殿で生まれた[1]

母は出自が低かったが孫権の寵愛が殊の外厚く、その上で自身も最年少の子であったため、特に孫権に可愛されている。その出身地と出生年が詳しく記されてある。なお、六兄である孫休(後の景帝、孫亮が生まれる以前には末子)の若い時代の記録は極めて簡略であり、格差を表している。

三兄である皇太子孫和(当時)は最初に孫権に可愛がられていたが、四兄である魯王孫覇との争いや長姉である全公主からの中傷から、孫権からの寵愛が衰えることになった(二宮事件)。父に新しい皇太子を望まれ、赤烏13年(250年)8月、孫和が廃れた後、11月、代わって皇太子に立てられることになった。太元元年(251年)夏、母が孫権の皇后になり、皇后所生の嫡出の皇子として地位を一層固める事になる。

同年12月、病気が重くなった孫権は、諸葛恪を呼び寄せて太子太傅に任じ、さらに滕胤太常に任じて孫亮の輔佐に当たらせた。孫亮は幼いころから聡明で成人並みの判断力があり、皇太子として傅相に対して礼を尽くし、大臣の敬意を得た[2]

神鳳元年(252年)、2月に母が暗殺され、4月に孫権が崩御した。孫亮が皇帝に即位、大赦を実行し、建興改元した。
諸葛恪の驕慢

建興元年(252年)閏4月、諸葛恪が太傅になり、滕胤を衛将軍に任命して、尚書の職務を兼任させた。また呂岱大司馬に任命した。同時に文武百官の爵位を進めて恩賞を与え、等級も引き上げた。

同年冬10月、孫権の死に乗じてが南下を開始した。諸葛恪は巣湖に向かい魏の侵攻を押し止め、東興を築城した上で、全端留略にそれぞれ西城・東城を守らせた。

胡遵諸葛誕が歩兵・騎兵15万を率いて東興を包囲し、さらに魏は同時に南郡・武昌にも攻撃を加えてきた。12月19日、諸葛恪は大軍を率いて魏軍の迎撃に向かい、12月23日、東興において魏軍を破り、韓綜桓嘉を斬った[3]東興の戦い)。

建興2年(253年)正月1日、全氏を皇后に立て、大赦を実行した。同年正月5日、南郡と武昌を攻撃していた魏軍も東興での敗戦を知って撤退した。同年2月、東興から軍が帰還し、盛大に論功行賞を執り行った。

同年3月、諸葛恪は魏の討伐に向かい、4月に合肥新城を包囲したが、疫病で多くの兵が死去し、失敗に終わった。

諸葛恪は元々驕慢な性格であったが、敗戦後、人事を専断するなどその専横ぶりがますますひどくなった[4]

同年10月、大饗の礼が催された。この時の宴席で、孫峻クーデターを起こし、宮殿で諸葛恪を殺害し、専横を極めていた諸葛恪一派を一掃した。孫亮は怒り、この計画を知らなかった[5]。大赦が実行され、孫峻が丞相・富春侯に任命された。
孫峻の専横

諸葛恪の死後も、結局は孫峻が専横を極めただけで、多くの者が不満を懐いたという[6]

五鳳元年(254年)秋、孫英によって孫峻暗殺計画が立てられたが、この事件は未然に発覚し、孫英は自殺した。

五鳳2年(255年)正月、魏の?丘倹文欽淮南で反乱を起こし、軍勢を率いて西進し、楽嘉で魏の司馬師と戦った。同年閏正月9日、孫峻は寿春の襲撃を図り、呂拠留賛を率いて北上したが、東興まで来たところで文欽らが敗れたという知らせが入った。同年閏正月19日、?皋まで進んだところで、文欽が数万の敗残兵とともに降伏してきた。孫峻らは諸葛誕の軍が寿春を制圧したことを知ると、撤退を開始した。同年2月、高亭において魏の曹珍と遭遇したため、これを破った。一方で、病身のため先に撤退していた留賛は、菰陂において諸葛誕の将軍?班と遭遇し敗れ、将軍の孫楞・?脩らと共に殺害された。

同年3月、朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させることはできなかった。同年秋7月、孫儀・張怡・林恂らが孫峻暗殺を計画したが発覚し、孫儀は自殺、林恂らは処刑された。

衛尉の馮朝に命じて広陵で築城させた。また、将軍の呉穣を広陵太守に、留略を東海太守に任命した。

同年12月、太廟(孫権の廟)を建てた。

太平元年(256年)孫峻は文欽の策により、魏の征伐を計画し、8月、先遣隊として文欽・呂拠・劉纂・朱異・唐咨の軍を動員し、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させた。だが9月14日、孫峻は急死し、その従弟の孫?侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任命された。
孫?の暴虐

孫?は、孫峻の権力を継承すると、呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫?の権力継承に大きく不満を懐いた。呂拠・文欽・唐咨は上奏し、滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫?はこれを拒否、9月30日、孫?は滕胤を大司馬に転任させて、呂岱の代わりに武昌に赴かせた。呂拠らは軍を戻し、帰還して孫?を討とうとした。だが、孫?は文欽と唐咨に詔書を送り、10月、孫憲丁奉・施寛らを派遣し、水軍を指揮させ江都で呂拠を迎え撃たせた。また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って、歩兵騎兵を指揮し、攻撃させた。滕胤は敗れて一族皆殺しとなり、呂拠も新州で捕えられた。呂拠は謀反人となる事を恥じて自害し、一族は皆殺しとなった[7]

同年11月、孫?は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。孫憲は将軍の王惇と図り孫?の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。12月、五官中郎将の?玄を使者として蜀漢に送り、反乱が鎮圧された事を報告した。

太平2年(257年)4月、孫亮は正殿に出御し、大赦を実行して自ら政務を執った。孫亮はしばしば宮を出て中書にて孫権の旧事を目にし、左右の侍臣に尋ねた。「先帝にはしばしば自ら詔を書いたのに、今は大将軍が事を計り、ただ私が“可”と書いて命じるだけではないか。」

この後、孫?の意見に孫亮が反対・反論することが多くなった。おそれた孫?は建業に帰還後も参内しないようにした。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、近衛軍を作り、御苑の中で日々演習を行った。

同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の諸葛?呉綱など側近の子弟らを人質に送ってきた。同年6月、孫?は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵・騎兵3万人を指揮させ諸葛誕の救援に向かわせた。一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて夏口を攻撃させると、孫壱は魏に亡命した。同年秋7月、孫?は自ら軍勢の指揮を執って寿春に赴き、?里の地において夏口から来た朱異と合流した。孫?は朱異を前部督に任命して、丁奉と共に兵士5万を指揮して寿春の包囲陣を攻撃させた。

同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。?陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、丁密鍾離牧・歩兵校尉の鄭冑がこれを討伐した。

朱異は魏軍の包囲陣を崩せないまま兵糧が尽き、撤退した。孫?は激怒し、同年9月朔日に朱異を?里で殺害した。9月3日、孫?は?里より建業に帰還した。

同年11月、全緒の子の全?・全儀が母を連れて魏に亡命した。12月、寿春で孤立していた全端・全懌司馬昭に降伏した。

太平3年(258年)正月、諸葛誕が文欽を殺害した。さらに3月、司馬昭が寿春を落城させ、諸葛誕らを滅ぼし、その部将や軍吏を降服させた。

同年秋7月、孫奮を章安侯に封じた。
廃立と死

孫亮は孫?の専横に業を煮やし、全尚・全公主・将軍の劉丞らと謀り、孫?を誅殺しようと計画した。孫亮は黄門侍郎の全紀(全尚の子)を召して密かに謀り事をした。「卿の父は中軍都督であり、密かに士馬を厳重装備させ、私は自ら出て橋に臨み、宿衛の虎騎・左右の無難兵を帥いて一時にこれを囲もう。詔書を作して孫?の領兵に命じれば、みな解散して手段を挙げられぬだろう。」

全尚は浅はかにも妻に語った。妻は人を遣わして、従弟である孫?に密告した。

孫亮側の動きを事前に察知した孫?が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで、謀略は失敗に終わった。孫亮は上馬し執弓して出ようとし「孤は大皇帝の嫡男であり、位に在ること已に五年である。


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