学徒出陣壮行早慶戦
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1943年 出陣学徒壮行早慶戦出陣学徒壮行早慶戦

慶應義塾大学 早稲田大学

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開催日時1943年10月16日 (1943-10-16)
開催球場戸塚球場
開催地 日本
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出陣学徒壮行早慶戦(しゅつじんがくとそうこうそうけいせん)は、早稲田大学野球部慶應義塾大学野球部により1943年昭和18年)10月16日に、早稲田大学戸塚球場で行われた野球の試合。第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合として知られ、別名を「最後の早慶戦」という。

試合から65年目となる2008年には相次いで舞台化、映画化され、関連する書籍も刊行された。
東京六大学野球の中止

日中戦争(支那事変)の開始に伴い強まっていた戦時色は1941年太平洋戦争開戦によりさらに強まっていた。敵国アメリカ合衆国で生まれた野球軍事教練に関係がないこともあって、敵性スポーツとして弾圧の対象となっており、中等学校野球都市対抗野球1942年限りで中止に追い込まれた。

そして東京六大学野球でも平日の試合開催禁止から始まって1940年から秋季リーグ戦は各校1回戦総当たり、1日3カード実施=約1か月で日程を消化させられるという縮小状態に追い込まれていた。

そして1942年10月25日の秋季リーグ戦・早大vs立大戦を最後に、1943年4月7日にはついに文部省がリーグ解散令を強行した。この為、東京六大学野球加盟校は次第に活動停止に追い込まれてしまったものの、早大と慶大の両校は辛うじて練習を続けていた。
試合開催までの苦難小泉信三飛田穂洲

太平洋戦争の開始直後は華々しい戦果を挙げていた日本軍も、そのうちに各地で敗退を繰り返していくようになった。1943年には日本近海でアメリカ合衆国の潜水艦が日本の資源輸送船を襲うようになるなど、すでに戦局も深刻なものになっており、10月には法文学部系学生の徴兵延期停止の命令が下るまでになった(学徒出陣の項参照)。

「ひとたび戦地に赴けば、生きて故郷の、そして学舎の土を踏むことは叶わないかもしれない、せめて最後に試合を、出来るならば早稲田と試合をしたい……」

こうした思いから、慶大野球部主将阪井盛一は部長平井新を通じて塾長小泉信三早慶戦の開催を申し出た。このとき文部省からの通達により、対外試合の実施は大学総長の方針に任せられていたのである。

「出陣する学徒たちに何か餞を、それには早慶戦がふさわしい……」

そう考えた小泉はこの申し出を快諾、阪井・平井は連盟理事の早大野球部顧問飛田穂洲(同部初代監督)を訪れ、学生野球聖地明治神宮野球場で早慶戦を行うことについて申し入れた。小泉のこの一戦にかける決意は固く、文部省を通さねばならない神宮球場の使用については自分が交渉に当たっても良い、とまで言った。この申し出に早大野球部は大いに喜び、慶大野球部も急遽帰郷中の選手を呼び戻して練習を再開した。

ところが試合実現に大きな障壁が立ちはだかった。早大当局が難色を示したのである。軍部や文部省の弾圧に抗しきれず、試合の申し出を応諾出来ないでいたのである。そうしているうちに学徒出陣の日は迫る。早大野球部は飛田だけでなく部長外岡茂十郎、マネージャー相田暢一らが大学当局を必死に説得するが大学当局は煮え切らない態度を見せ続ける。実はこの年の春にも慶應義塾から早慶戦開催の申し出があったが、同様に大学当局の反対に遭い実現できずに終わっていた。田中穂積総長が難色を示し、外岡らが必死の説得工作を行い報國隊の部隊長会議で挙行賛成が過半数を上回る結果となっても、結局田中総長が開催を許さなかったのである。

こうした事情を察して慶大側も、「試合場が神宮で都合が悪ければ日吉の慶大グラウンドでも早大の戸塚球場でも構わない」との配慮を見せた。それでも早大当局は、戸塚球場で実施して事故でも起きたら誰が責任を取るのか、と一向に試合実施を認めない。ついに早大野球部は大学の反対を押し切り野球部として責任を持って試合を挙行することを決意した。それでも、軍部・官僚の機嫌を取り何としても挙行を阻もうとする大学側との厳しいやりとりは、結局試合当日まで及んだ。
圧力を跳ね返しての試合強行

試合当日の10月16日が間近に迫っても、早大当局は試合を許可しなかった。ところが新聞に10月16日13時試合開始との記事が出た。出し抜かれた形になった早大当局は、試合開始を午前8時からとし正午までには試合を終えるよう早大野球部に要求した。ひとたび開始にこぎ着けたのだから選手たちがこれに応じるはずもなく、練習を行い慶大野球部と応援学生たちを迎え入れるうちに、正午に試合が開始された。この試合は一般には公開せず両校学生と部員の家族、野球部OBなど関係者のみに開放された。戸塚球場に着いた小泉塾長は早大側による特別席への案内を「私は学生と一緒の方が楽しいのです」(『早稲田大学野球部五十年史』)と断り学生席に着席した。
出場メンバーとスコア

慶應義塾大学
打順守備選手名出身校卒業後・戦後の主な進路
1(左)矢野鴻次
下関商業戦後に復学。大洋漁業
2(二)山県将泰広島商業戦後に復学。植良組→大昭和製紙
3(捕)阪井盛一(主将)滝川中慶大野球部監督(1949年 - 1955年)
4(中)別当薫甲陽中戦後に復学。全大阪→大阪タイガース毎日オリオンズ
5(右)大島信雄岐阜商業戦後に復学。大塚産業→松竹ロビンス中日ドラゴンズ
6(一)長尾芳夫東邦商業愛知産業→電電東海
7(投)久保木清広島商業戦後に復学。山崎産業→大昭和製紙→読売ジャイアンツ電電東京日本鉱業佐賀関
高松利夫東京市商 [1]菊水クラブ→大映スターズ
代打加藤進愛知一中戦後に復学。藤倉電線→愛知産業→中日ドラゴンズ
8(遊)河内卓司広島一中戦後に復学。大洋漁業→毎日オリオンズ→高橋・トンボユニオンズ
9(三)増山桂一郎敦賀商業戦後に復学。大塚産業→大映スターズ→日本石油


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早稲田大学
打順守備選手名出身校卒業後・戦後の主な進路
1(二)森武雄岐阜商業大日本土木→岐阜商業野球部監督→川島紡績→岐阜カンツリー倶楽部
2(捕)伴勇資福岡工業西日本鉄道西鉄ライオンズ東急大映柳川商業国士舘大学野球部監督
3(左)近藤清岐阜商業1945年4月28日、神風特攻隊員として出撃し、沖縄で戦死
4(一)笠原和夫(主将)市岡中大野大喜クラブ→北新化学→全大阪→南海ホークス高橋・トンボ大映ユニオンズ
5(中)吉江一行磐城中1945年10月3日、戦病死


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