学士助手
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学士助手(がくしじょしゅ)は、研究者として養成するため、学部卒業の学士から採用される助手の俗称で、東京大学法学部(大学院法学政治学研究科)での運用が典型であった。
概要

東京大学法学部には、大学院とは別に学部で一定の成績要件を満たして学士を取得した者から毎年10名前後[1]を助手として採用し(このため「学士助手」と呼ばれる)、3年間の任期中に論文(「助手論文」と呼ばれる)を作成させ、研究者として養成するという運用があった。

作成した助手論文が認められると、東京大学法学部や他大学法学部などの助教授講師として採用される者が多かった。大学院博士課程を最短で修了した場合よりも2年早く、最短は25歳で助教授や講師に採用され、助手の在任中も国家公務員として給与を受給するなど恵まれた待遇であった。修士課程修了後に3年任期の助手として採用される事例もあった。

大学院を経ない学士を助手として採用する運用は、東京大学法学部の他、京都大学法学部(京都大学法学部では「学卒助手」と呼ばれる[2])やその他の旧帝国大学法学部、一橋大学法学部中央大学法学部などでも見られた。

今日のような大学院制度が確立されていなかった旧制大学時代には、法学部に限らず他の学部でも、学部卒業の学士から直接助手や副手などに採用する例は多かった[3]

東京大学法学部において、教授候補者を優秀な学士から選抜し、3年間の助手任期中に論文を作成させ、それによって自大学又は他大学の助教授等として採用・転出させる(up or out)育成方法は、大正9年頃に成立したとされる[4]が、この運用が長く続いた理由としては、官僚や民間企業などに比して遜色が無いアカデミックキャリアを提示することで、優秀な学生を研究者として確保したいという意図[5]があった。
影響

この結果、東京大学法学部教員のほとんどが「法学士」で、博士号取得者は論文博士による少数の者という時期が長く続いた[6]。教授陣が新制大学卒業者に置き換わった1990年において、教授34名中、法学士は24名であった[7]

これに対し、助手として在籍する3年間では研究者として十分な基礎鍛錬を積めないのではないかという意見や、博士号を軽視する異例の慣行への疑問も存在した[8]
司法改革以後

2005年法科大学院制度が導入されて、東京大学大学院法学政治学研究科は「学士助手」の運用を廃止し、法科大学院又は大学院修士課程修了者から若干名を「助教」として採用する制度を導入した[9]。3年間の任期中に論文(「助教論文」と呼ばれる)を提出(「助手論文報告会」が毎年執り行われている)して大学の准教授や講師に採用される。

旧司法試験が新司法試験に一本化されて司法試験予備試験が導入されたのち、「学部在学中に予備試験と司法試験の双方に合格した」者に限り「学士の学位の保有のみであっても東京大学大学院法学政治学研究科の助教に採用する」、かつての学士助手に類似する制度が新たに加わった。2017年4月採用予定の助教募集要項は、「志願者は事前に将来専攻しようとする科目の担当教員に面接して指示を受けること」を求め、選考方法は「面接、成績、健康診断」[10]によるとしている。

現在は、東京大学法学部教員の経歴・学位は多様化しており、他大学出身者や大学院進学者および博士号取得者も少なくない[11]
主な学士助手出身法学者政治学者
東京大学法学部(新制以降、採用年次毎)

1953年
金子宏

1954年 新堂幸司 伊藤大一 小菅芳太郎 松尾浩也 小原喜雄 森美樹 伊東すみ子

1955年 田宮裕

1956年 塩野宏 村上淳一 高畠通敏

1957年 所一彦 兼子仁 半澤孝麿

1958年 森嶌昭夫

1959年 石井紫郎

1960年 三谷太一郎 佐藤誠三郎 近藤弘二

1961年 平井宜雄 田村諄之輔 長尾龍一 西尾勝 米倉明 大久保泰甫 金城清子

1962年 青山善充 中元紘一郎

1963年 藤田宙靖 石田穣 佐々木有司 野村好弘

1964年 阿部泰隆 淡路剛久 天川晃 岩井宜子

1965年 佐々木毅 大河内繁雄

1966年 町野朔 古川純

1967年 棚瀬孝雄 高橋和之 磯部力 石川正

1968年 浦部法穂 菅野和夫 平川宗信 小林公 伊藤眞 水谷三公

1969年 小早川光郎 加藤雅信 中山信弘 江頭憲治郎 大塚龍児 西田典之 渡辺浩 五十嵐武士 田中善一郎 松村良之 佐藤慎一


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