学問吟味(がくもんぎんみ)は、昌平坂学問所において行われた旗本・御家人とその子弟を対象に朱子学の学識を試すという試験。寛政の改革において導入され、科挙のような官吏登用試験ではなく、成績優秀でもすぐに高級官僚の椅子を約束されたわけではなかったが、時代が下るにつれ成績優秀者が重職につき活躍するなど、幕末まで幕府の人材登用の機会として機能した。 幕臣の教育振興と人材発掘を兼ねて[注 1]、寛政の改革の一環として寛政4年(1792年)に初めて行われ、同6年(1794年)の第2回学問吟味において制度が整備され、以後、概ね3年に1度の頻度で実施されるようになり、慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領[注 2]や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。第2回学問吟味においては、旗本では遠山景晋(のちに勘定奉行。遠山景元の父)、御目見以下では大田直次郎覃(南畝)や近藤重蔵らが受験し、優秀な成績で褒賞され、のちに重職についている[1]。幕末においては、成績優秀者として、永井尚志、柴田剛中、塚原昌義、山口直毅、内田正雄などがおり、主に外国対応の役職に抜擢されて、活躍した。 初場(予備試験)と本試(本試験)に分かれ、「初場」で四書五経や小学
概要
幕臣の子弟に対する初級者向けの試験として、昌平坂学問所において、毎年10月、15歳未満の年少者あるいは17歳から19歳までの子弟を対象として、担当の目付や大学頭、学問所の教授が列席する試験場で、四書五経の指定された箇所を音読する童試「素読吟味(そどくぎんみ)」が実施され、学問吟味同様、成績優秀者は褒賞された[4]。
脚注
注釈^ 武芸の優れた者の人材発掘に関しては、享保の改革において徳川吉宗が「武芸吟味