孟子_(書物)
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孟子
著者孟子または萬章など
中国
言語漢文
ジャンル中国哲学

孟子
中国語 孟子
文字通りの意味Master Meng

発音記号
標準中国語
漢語?音Mengz?
ウェード式Meng-tzu
呉語
ローマ字Man-tsy
粤語
イェール粤?Maahng-ji
粤?Maang6-zi2
?南語
?南語白話字B?ng-chu
中古音
中古音Ma?ng dzi
上古音
バクスター-
サガール*m?rang-s m?-dz??

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孟子

『孟子』(もうじ[1]、もうし、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Mengz?)は、儒教の思想家である孟子の逸話・問答の集成である。成立は紀元前4世紀後半・戦国時代まで遡る[2]代以降は「四書」「十三経」に含められ儒教経典の一つとされる。
著者

中国の歴史を通して、『孟子』の著者が誰であるかについて複数の見解があった。司馬遷は、『孟子』は孟子が自らの弟子である公孫丑(中国語版)・萬章とともに書き上げたものであるとしている。一方、朱熹・趙岐焦循らは、孟子が自分一人で書き上げたとしている。韓愈・孫?(中国語版)・晁公武(中国語版)らは、孟子の死後公孫丑と萬章が自身の記録や記憶を基にして『孟子』を著したとしている。
注釈

注釈は複数存在するが、趙岐朱熹による注釈が最も権威がある。趙岐の『孟子注』は『十三経注疏』に含まれ「古注」と称されるのに対し、朱熹の『孟子集注』は「新注」と称される。他にも、焦循の『孟子正義(中国語版)』、和書では伊藤仁斎の『孟子古義』などが知られている。
評価・受容

『孟子』は元々経書としての地位を与えられていなかった。『漢書芸文志では『孟子』は経書ではなく諸子百家のうちの儒家者流に含められ、漢代においては『荀子』と比しても評価が低かった。漢文帝は『論語』・『孝経』・『爾雅』とともに『孟子』を「伝記」の一つとして博士を置いたが、後に除いた[3]

唐代に入ると韓愈柳宗元の功績により評価が高まった。五代十国時代後蜀の皇帝である孟昶(もうちょう)は、石経に『孟子』を含めた。これはおそらく『孟子』を真の経書の範疇に含めた最初の例である。

北宋では王安石が『孟子』を科挙の科目に加えたが、これに反発して司馬光の『疑孟』も作成された。南宋孝宗の統治時代、朱子学の祖である朱熹により四書(『論語』・『孟子』・『中庸』・『大学』)に列せられ、以来重視される。に至るまで、『孟子』は科挙試験の題材であった。

の第5代皇帝である雍正帝は、華夷思想により満州人の支配を良しとせずの復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、討論の経緯を『大義覚迷録』という書物にまとめ、『孟子』にある「は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ。距離の離れること千余里、時代にして後れること千年あまりだが、志を立てて中国で実行したことは割り符を合わせたように一致している。先の聖人も後の聖人も、みな軌を一にしているのである[4][5]」という孟子の言葉をなぞりつつ[6]、「本朝が満州の出であるのは、中国人に原籍があるようなものだ。は東夷の人だったし、文王は西夷の人だったが、その聖徳は何ら損なわれてはいない」「徳のあるものだけが天下の君になれるのだ」と強調している[6]。夷狄の名は、本朝は諱むところではない。孟子は、「舜は東夷の人であり、文王は西夷の人である」と言っている。もとの生まれたところは、なお今人の籍貫のようなものである。いわんや満州人はみな漢人の列に附することを恥じている。ジュンガル部は満州人を蛮子と呼び、満州人はこれを聞いて、憤り恨まないものはなかった。それなのに逆賊(の曽静)が夷狄であることを罪としたことは、まことに(『程子語録』にいう)酔生夢死(何も爲すことなく無自覚に一生を送る)禽獣である。 ? 大義覚迷録[7]
日本における『孟子』孟子集註』江戸時代の刊本
江戸時代以前

日本にも『孟子』は持ち込まれたが、「易姓革命」の概念が受け入れられず、あまり流布しなかったと言われている。これは、移り変わっていく中国の政権と異なり、日本の皇室は政治体制の変動にもかかわらず(形式だけでも)頂点にあり続けたために、矛盾が発生してしまうためであると考えられる。また、明経道家学とした公家清原氏では、易姓革命の部分の講義は行わない例があったとされている。俗に「『孟子』を乗せた船は、日本に着く前に沈没する」とも言われていたと伝わる(「孟子舶載船覆溺説」)。謝肇?(しゃ ちょうせつ)の『五雑組(ござっそ)』には「倭奴(日本人の事)もまた儒書を重んじ仏法を信ず。凡そ中国の経書は皆重価を以てこれを.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}購(あがな) う。独り孟子無しという。その書を携(たずさ)えて往く者あれば、舟輒(すなわ)ち覆溺す。これまた一奇事なり」とあり、それを参考にした上田秋成の『雨月物語』で西行に語らせた台詞「八百よろずの神の憎ませ給ふて神風を起こして船を覆し給ふと聞く」の記述とも関係があると考えられる。

しかし、宇多天皇の寛平3年(891年)に藤原佐世の著した『日本国見在書目録』には既に『孟子趙岐注』14巻などがあったと記録されている。おそらく上記の伝説は危険に満ちた航海者の畏怖の念から出てきたものと思われる。そもそも、『孟子』が中国において儒教の経典としての地位が認められた時代(北宋後期?南宋前期)には、遣唐使が既に廃止されて日中間の学術的交流は大幅に縮小されており、日本における儒教は遣唐使廃止以前の唐代儒教の延長線上にあった。そのため、日本の大学寮明経道の教科書には『孟子』は含まれておらず、鎌倉時代以前の日本では『孟子』はほとんど知られていなかった可能性は高い。儒教の経典としての『孟子』の伝来は鎌倉時代に宋学の一部としてのものであったと考えられている。鎌倉末期に花園上皇皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に宛てた『誡太子書』には『孟子』の革命説が引用されており、『徒然草』や『太平記』にも『孟子』の知識が垣間見られるなど、既に支配層や知識人の間では『孟子』は広く知られていた。


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