孝武帝 劉駿
宋
第4代皇帝
王朝宋
在位期間元嘉30年4月27日 - 大明8年閏5月23日
(453年5月20日 - 464年7月12日)
都城建康
姓・諱劉駿
字休龍
諡号孝武皇帝
廟号世祖
生年元嘉7年8月16日
(430年9月19日)
没年大明8年閏5月23日
(464年7月12日)
父文帝
母昭皇太后路氏
后妃文穆皇后王氏
陵墓景寧陵
年号孝建 : 454年 - 456年
大明 : 457年 - 464年
孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。 元嘉7年(430年)8月、文帝劉義隆の三男として生まれた。元嘉13年(436年)9月、武陵王に封じられた。元嘉16年(439年)、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。元嘉17年(440年)、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。元嘉21年(444年)、撫軍将軍の号を受けた。元嘉22年(445年)、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。 元嘉25年(448年)、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。元嘉27年(450年)、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。元嘉28年(451年)2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南?州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。 元嘉30年(453年)2月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。大明3年(459年)4月、異母弟の竟陵王劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之
生涯
在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、南朝宋の衰退の端緒となった。
大明8年(464年)閏5月、玉燭殿で崩御した。
妻子
正室:王憲?(孝武文穆皇后)
長女:山陰公主 劉楚玉 - 何?にとついだ
三女:臨淮公主 劉楚珮 - 王瑩(王偃の子の王懋の子)にとついだ
長男:前廃帝 劉子業 - 第5代皇帝
次男:豫章王 劉子尚(孝師)
皇女:劉楚e - 早世
皇女:康楽公主 劉修明 - 徐孝嗣
先代
文帝
劉劭宋(劉宋)の皇帝
第4代:453年 - 464年次代
前廃帝
表
話
編
歴
南朝の皇帝
宋
武帝(420-422)
少帝(422-424)
文帝(424-453)
(劉劭)(453)
孝武帝(453-464)
前廃帝(464-466)
(劉子)(466)
明帝(466-472)
後廃帝(472-477)
順帝(477-479)
斉
高帝(479-482)
武帝(482-493)
鬱林王(493-494)
海陵王(494)
明帝(494-498)
東昏侯(498-501)
和帝(501-502)
(蕭宝寅)(528-529)
梁
武帝(502-549)
(蕭正徳)(548-549)
簡文帝(549-551)
(蕭棟)(551)
(蕭紀)(552-553)
元帝(552-555)
敬帝(555)
(蕭淵明)(555)
敬帝(重祚)(555-557)
(蕭荘)(558-560)
(西)宣帝(555-562)
(西)明帝(562-585)
(西)後主(585-587)
(蕭銑)(618-621)
陳
武帝(557-559)
文帝(559-566)
廃帝(566-568)
宣帝(569-582)
後主(582-589)
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