孝明帝
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この項目では、北魏の孝明帝について説明しています。後漢の孝明皇帝については「明帝 (漢)」を、日本の孝明帝については「孝明天皇」をご覧ください。

孝明帝 元?
北魏
第8代皇帝
王朝北魏
在位期間延昌4年1月13日 - 武泰元年2月25日
515年2月12日 - 528年3月31日
都城洛陽
姓・諱元?
諡号孝明皇帝
廟号粛宗
生年永平3年3月14日
510年4月8日
没年武泰元年2月25日
528年3月31日
宣武帝(第2子)
宣武霊皇后胡氏
后妃胡皇后
陵墓定陵
年号熙平 : 516年 - 518年
神亀 : 518年 - 520年
正光 : 520年 - 525年
孝昌 : 525年 - 527年
武泰 : 528年

孝明帝(こうめいてい)は、北朝北魏の第8代皇帝宣武帝の次男。
生涯

510年3月、洛陽の宣光殿の東北に生まれた。512年皇太子に立てられた。515年1月、宣武帝が死去すると、北魏の皇帝として即位することとなった。幼年のため政治を執ることができず、はじめ高陽王元雍や任城王元澄が聴政した。8月、母の胡氏が皇太妃から皇太后となり、宣光殿で臨朝称制して、朝政の実権を握るようになった。

孝明帝の初年は、大乗の乱が起こって河北は動揺した。やがて侍中の元叉や中常侍の劉騰が宮中で台頭して、520年には孝明帝に政権を返すとの名目で胡太后を幽閉した。元叉と高陽王元雍の二頭体制が成立したが、実際は元叉が北魏の朝政を専断し、乱脈をきわめた。

523年、沃野鎮の破六韓抜陵が起兵して、鎮将を殺し、これを皮切りに六鎮の乱が勃発することとなった。胡?・葛栄杜洛周らが北魏に叛いて次々と起兵した。また徐州元法僧や東豫州の元慶和らが叛いて南朝梁につくなど、東南方の国境も不安定になった。

525年4月、胡太后が再び朝政をみるようになった。元叉は兵権を剥奪され、翌年に処刑された。胡太后の執政のもと、北魏の朝政は弛緩し、六鎮の乱は拡大するばかりとなった。

528年2月、孝明帝は胡太后を牽制するため、爾朱栄と手を結ぼうとしたが、これが露見して毒殺された。19歳没。
死後

孝明帝の暗殺後、胡太后ははじめ、孝明帝の娘を男子と偽って帝位に即け、露見すると代わって孝明帝の従兄の臨?王元宝暉の子の元サを擁立したが、爾朱栄の反発を招き、河陰の変で殺害された。

それ以後、北魏では安定した皇位継承が失われて傍系皇族(長楽王元子攸・長広王元曄・広陵王元恭・安定王元朗・平陽王元脩)の擁立と廃位・殺害が次々に行われ、6年後の534年には東魏西魏に分裂してそれぞれに傀儡の皇帝が立てられた。
宗室【拓跋氏系図】(編集)

魏書』巻1?巻22、『北史』巻5・巻14を元に作成。

 拓跋部        (1)拓跋毛 

               

               

               

            (13)拓跋鄰

               

            (14)拓跋詰汾

                
          
    禿髪匹孤     (15)拓跋力微

                          
                
    (南涼) (16)拓跋沙漠汗
 (17)拓跋悉鹿 (18)拓跋綽 (東部)拓跋禄官

                        
              
        (中部)拓跋猗?          (19)拓跋弗

                                      
                                      
              (1)拓跋猗盧    


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