孝明天皇
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孝明天皇
孝明天皇宸影(小山正太郎筆。1902年)
第121代天皇
在位期間
1846年3月10日 - 1867年1月30日
弘化3年2月13日 - 慶応2年12月25日
即位礼1847年10月31日
弘化4年9月23日)
於 平安宮(京都御所
元号弘化
嘉永
安政
万延
文久
元治
慶応
時代江戸時代
征夷大将軍徳川家慶
徳川家定
徳川家茂
徳川慶喜
摂政鷹司政通
関白鷹司政通
九条尚忠
近衛忠煕
鷹司輔煕
二条斉敬
先代仁孝天皇
次代明治天皇

誕生1831年7月22日天保2年6月14日
日本 山城国京都
崩御1867年1月30日慶応2年12月25日
日本 山城国京都
京都御所 常御殿
陵所後月輪東山陵
漢風諡号孝明天皇
統仁
称号煕宮
父親仁孝天皇
母親藤原雅子
女御英照皇太后
子女順子内親王
富貴宮
妙香華院
睦仁親王明治天皇
寿万宮
理宮
皇嗣皇太子睦仁親王
皇居寛政度内裏
安政度内裏
親署
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孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日天保2年6月14日〉- 1867年1月30日慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇[注 1](在位: 1846年3月10日弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。

仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。
生涯孝明天皇御胞衣埋納所、胞衣(えな)とは胎盤。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮社内)孝明天皇の冕冠孝明天皇の即位礼

1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。

傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。御乳人は押小路甫子。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となった。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に中沼了三を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。

1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代酒井忠義と参賀した。代始の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号嘉永となった。また、侍講中沼了三を学習院の儒官に任命した。

1850年5月19日(嘉永3年4月8日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺[注 2]へ命じた。1853年(嘉永6年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結された。5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、1855年1月15日(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元した。

1858年2月27日(安政5年1月14日)、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。3月10日(旧暦1月25日)には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。

太閤鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった[注 3]。3月2日(旧暦1月17日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。

4月5日(旧暦2月22日)、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を4月18日(旧暦3月5日)に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになったが、4月25日(旧暦3月12日)、88人の公卿が列参して条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳岩倉具視とともに行動に移したとされる。


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