孝公_(秦)
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孝公 ?渠梁

第25代公
王朝秦
在位期間
前361年 - 前338年
都城櫟陽→咸陽
姓・諱?渠梁(えいきょりょう)
諡号孝公
生年献公4年正月9日[1]
前382年12月6日
没年孝公24年(前338年
献公
陵墓弟圉

孝公(こうこう)は、中国戦国時代の第25代は?(えい)、は渠梁(きょりょう)。献公師隰の嫡子。即位するや、国中に布告を出して国政の立て直しをはかり、魏からやってきた商鞅を起用して抜本的な国政の改革(商鞅の変法(中国語版))を断行、穆公亡き後の衰退した秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。都を櫟陽から咸陽に遷都。対外的にもを破るなど、富国強兵に努めた中興の祖。恵文王樗里疾の父。
生涯
奇計の士を求む

秦の孝公元年(紀元前361年)、黄河及び華山から東には、強国が6つあった。すなわち、威王宣王恵王文公哀侯成侯である。その他の十数カ国は、淮水泗水のあいだの狭い地域に押しこめられていた。

これらの強国のうち、楚と魏は秦と境を接していた。魏はを起点に洛水に沿って長城を築き、北は上郡まで版図を広げていた。また楚は漢中を中心として南は巴・黔中にまで勢力を広げていた。

王室が衰えてからというもの、諸侯は力によって対立し、競って領土を拡大したのである。秦ははるか西方の僻地にある雍城[2]に都をおいたため、中原の諸侯から夷狄同様にみなされ、会盟に招かれることもなかった。

孝公は仁政に努めた。孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに国中に布告を出した。

「昔、わが先君穆公は岐山・雍州の付近に国を定めてから、徳をつみ武力を充実させ、その結果、東は晋の内乱を治めて国境を龍門河にまで拡大し、西はを帰属させた。領土を広めること千里、その功によって、天子から覇者と認められ、諸侯はこぞって祝意を表した。

ここに後世のために国の基礎が築かれたのであるが、この偉業にもかかわらず、その後、視、公躁公簡公出公と代を重ねるにつれ、国内の乱れがうちつづき、外征どころではなくなった。それどころか、三晋によって、わが先君の残された河西の地が奪われ、諸侯の侮りを受けるありさま。これほどの屈辱がまたとあろうか。

だが、献公が即位されるに及んで、辺境の蛮族を鎮撫し、櫟陽に遷都し、さらに東伐軍を派遣して奪われた領土を取り戻し、穆公の治世を再現しようとされた。この献公の志を思うにつけても、私は心が痛んでならない。ここに賓客はじめ群臣に告げる。奇計を出して、わが秦を強大にする者には、高い位と領邑を与えるであろう」

こうして、秦の外征が開始され、東は陝城を包囲し、西は戎の?王を斬るという成果をあげた。

そのころ、公孫鞅(以後、衛鞅)は、孝公の布告を伝え聞いて秦に入国した。彼は孝公の寵臣景監(中国語版)を通じて、孝公に目通りを願い出た。
商鞅の非指示的カウンセリング

さて、衛鞅が孝公に謁見した席上のこと、衛鞅の議論が長いので、孝公はうとうとしながら話を聞いていた。衛鞅が退出すると孝公は紹介者である景監を叱りつけた。

「おまえの客人は馬鹿ではないか。とりたてるなどとんでもないことだ」

そこで景監が衛鞅を責めると、衛鞅は答えた。

「わたしは帝たるの道を説いたのですが、よくおわかりいただけなかったようです」

だが5日たつと、孝公はふたたび衛鞅を引見したいと言い出した。衛鞅はいよいよ熱を込めて説いた。しかし孝公の同意を得ることはできなかった。前回と同様、衛鞅が退出すると孝公が景監をとがめ、そこで景監は衛鞅を責めた。衛鞅はこう答えた。

「わたしは王たるの道を説きましたが、納得していただけなかった。もう一度会えるよう取り計らってください」

こうしてもう一度、孝公に謁見した。孝公はこんどは衛鞅の話が気に入ったようだったが、まだ彼を登用するとは言わなかった。

衛鞅が退出すると、孝公は景監に言った。

「見直したぞ。おぬしの客人はなかなか話せる」

衛鞅は景監に言った。

「こんどは覇者の道を説いたのですが、だいぶお気に召した様子です。どうかもう一度、公に会わせて下さい。公のお考えがわかりましたから」

さて、4度目の謁見である。孝公はわれ知らず議論に熱中した。議論は数日にわたって続き、なお飽きることを知らなかった。景監が不審に思って衛鞅にたずねた。

「わが君は大変なお喜びようだが、いったいどうやってわが君のお心をつかんだのだ?」


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