存覺
正応3年6月4日 - 応安6年2月28日(旧暦)
1290年7月11日 - 1373年3月22日(新暦) [1]
幼名光日麿(光刀丸とも)
名〔東大寺受戒時〕
法名:興親
〔大谷〕
法名:存覺
諱尊覺⇒光玄
尊称存覚上人
宗旨浄土真宗
宗派真宗木辺派
寺院常樂寺
師覚如
弟子了源
著作『浄土真要鈔』、『六要鈔』、他
存覚(ぞんかく)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧である。父は覚如、弟は従覚。錦織寺四代。
存覚は、初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し、2度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった。
存覚は終生にわたり教化活動に力を注ぎ、佛光寺の了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行った。 年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。
生涯
正応3年6月4日(1290年7月11日[1])、本願寺三世覚如の長男として、生まれる。幼名は、「光日麿」(「光刀丸」とも)。
永仁5年(1297年)前伯耆守日野親顕
乾元2年・嘉元元年(1303年)、14歳で奈良に遊学し、東大寺で出家受戒し、「興親」と名乗る。興福寺の慶海・実伊・良寛に教えを受ける。
嘉元2年 1304年、比叡山延暦寺で受戒、尊勝院玄智に入門する。
嘉元3年(1305年)、日野俊光の猶子となり、名を「光玄」と改める。十楽院有職となる
徳治2年(1307年)、十月から十二月にかけて西山義の安養寺長老、阿日房彰空